エリート主義

  • 全体性について充分に参照しうる能力 conpetance を身につけた者だけが《学 Wissenschaft》に関われる、という共通了解がある。 貴族主義的、閉鎖的ともいえる。
    • もともとヨーロッパとアメリカでは、ルールをめぐる伝統が違う。
    • アメリカでは、いろいろな手順をルール化して、共有できるようにする。 「分かる奴にしかわからない」ような手順をできるだけ排除してゆく。 ▼ヨーロッパはむしろ逆。 そうした手順化のプロセスの中で、暗黙知、〜〜〜*1がスポイルされてしまう可能性をたいへん気にする。


  • BBCの取材に協力した際、番組内容があまりにもアヴァンギャルド(前衛的)だった。 「難しいことをそのまま話してもらい、そのまま放映する」という。 「分かる人は居ないのではないか」と心配になった。 ▼番組プロデューサー:「BBCとしては、世の中の500人にしか伝えられない公共的ステイトメンツ statement(声明・メッセージ)があると思う。」
    • 宮台氏:「しかし日本のNHKでは、一部にしか理解されないものは《公共的》とは見做されない」
    • BBCプロデューサー:「イギリス的・ヨーロッパ的にはそれはあり得ない。 世の中にはバカもいる。 500人の賢明な人間がどうしても共有しなければならないものは伝えなければならない」
        • 感銘し、知り合いのNHK関係者に伝えたら「言いたいことはわかりますが、NHK的にはまったく無理」。


  • 日本の学的伝統はもともとヨーロッパ(特にドイツ)出自。 つまり《学問的 Wissenschaftlich》なもの。 高い前提を共有した人間のクローズドなゲームの中で知的な頂点を上げていくっていうのが大学の中でのゲームだった。 それがここ20年ぐらいの間に別のものに変わってきた(アメリカのものが入ってきた)。
  • 私(宮台氏)の学問的な出発点は、チョムスキー言語学と、フォン・ノイマンゲーム理論がある。 つまり「数理科学」であって、数学的な手続きを理解できる人全員に開かれている。 そういう学問の重要性はよく分かっている。
  • 「底辺を上げる」「万人に共有可能なものを広げる」ことによっては排除できない問題がある。 つまり、日本は知的な頂点が下がっている。 アメリカでは、「万人に共有可能なものを」と言いながら、頂点が下がらないシステムを維持している。 ところが日本は、東大生がバカばかりになっている事実など、知的な頂点のレベルがすごく下がっている。 官僚・財界・市民のエリートも、レベルが下がっている。


  • こういう状況では、ヨーロッパ的な発想も重要で、Wissenschaftlich な発想を擁護したい。 そうしたものの中にもう一度ルーマンを組み込んでいきたい。
    • ルーマンが自分の方向に自己言及を反復し始める1980年以降の作業が、知的なプラットフォームを万人に共有させることに貢献しているかと言えば、していない。 ルーマンにとっては発見的に機能するツールは、他の人にとっては発見的に機能するどころか、むしろネガティブに作用している。 実りある「発見 findings」はどんどん減ってきている
  • 「万人の底を上げていく」ということと、「頂点を上げていく」ということを同時に実行しなければならない。 ルーマンの営みは「頂点を維持する」というゲームの中に組み込まれ、その中で評価されてきている。




*1:聞き取れず。 意味としては、「分かる奴なら最低限これぐらいは分かっていて当然」というような、学問伝統に基づく貴族的規範(ノブレス・オブリージュ Noblesse Oblige)か。