「適応と抵抗」(本田由紀氏)

 適応と抵抗、ローマ字書きすればkの位置がずれるだけでスタンスは大違いだ。でもおそらく両方が必要なのだ。どっちかだけでは出口はない。両方のつっぱりで自らを支えながらもじもじと進むしかないのだ。

御意。
個別のケースや時期・年齢にもよるけれど、大まかには、高齢化して追い詰められた引きこもり業界が《適応》を模索していて、「無理やりの社会適応」に異議を唱える不登校業界が《抵抗(あるいはオルタナティブ)》を標榜する。 なので往々にして両業界は仲が悪いのだが、むしろこの話題は論者たちの試金石であって、「どちらか一方の立場を強硬に主張する」というのでは、柔軟な話し合いはできない。 ▼とりわけ、一人ひとりの事情に即すことができなくなる。
ひきこもりで厄介なのは、それが「過剰な適応努力ゆえにかえって適応できなくなっている」という姿であるため、たとえば支援者が「抵抗」を標榜すると、その「抵抗という指針」そのものに過剰適応してしまい、苦しくなることがあって・・・・。
《適応》と《抵抗》のバランス感覚やその指針は、もうそのまんま「思想」の話。――「どのような思想を選ぶか」については当事者各人に任せるのは当然だし、私にも一定の傾向がある。 ▼いちばん肝腎な問題は、適応と抵抗のバランスを、本人自身が自分で探れるようになることだと思う。