「経済」「規範」「職能」の峻別

先日も触れたが、番組に出演した「現役ニート」たちは、家族の援助がなければ生きていけないが、逆に言えば、家族の援助さえあれば、スタジオや視聴者を敵に回しても生きていける。 つまり、経済事情を保障してくれる帰属集団さえあれば、全体社会の規範から逸脱していても生きていける*1
問題はだから、個別社会(家族など)と全体社会の、関係のあり方、調整の仕方なんだと思う。
全体社会の規範から外れていればミクロな社会においても排除されるというのであれば、誰も「現役ニート」諸氏のような言動は取れないはず(多くの人はそうやって自分を規制している)。 ▼職場という個別社会(職能集団)においては、「有能な人でなければ困る」という事情が優先することは、rahoraho(斎藤智成)氏自身が認めている

 原口一博 採る側の経営者だったとします。 経営者だったらどういう人を採りますか?
 斎藤智成: 能力の高い人ですね…

自分や親族が病院で手術を受ける場合、あるいは自分たちの住む家を建ててもらう場合、「仕事のできない人が担当者でも構いません」と言えるだろうか? ▼私はいま知人たちと『論点ひきこもり』というサイトを共同運営しているが、スタッフを募集する際には、やはり「仕事のできる人」を募集するしかない*2

  • 「経済」「規範」「職能」の3つは、懸念材料として切り分けて検討すべきだと思う。
    • 所属する個別集団で承認されていて、その間社会参加しなかった。 また、職能がなければ雇ってもらえないことに異論はない。――だとしたら、焦点化すべき規範は、いわゆる「履歴書の空白」、つまり「長期にわたる社会からの離脱」を認めるか否かだと思う。 ▼rahoraho氏が再三主張していたように、いま現に生きていられるということは、身近な人間関係において経済事情がまかなえており、だから「働く必要がない」のだが、彼を責める人たちは、「だけど人間ならば働くべきだ」という話になっている。 社会から離脱してはならず、「自立していなければならない」と。 職業生活から離脱し、経済的に誰かに依存した生活を送っていた事実が、のちのちの人物評価にマイナスの影響を持ち、職能とは別枠でスティグマ化のリスクを負うという事実を、肯定するのか否か。




*1:個別集団が全体社会の規範から逸脱しつつ成立している例については、他にも指摘できると思う。

*2:ひきこもっている人で「仕事ができない」というのは、一般に思われるよりも桁外れに「できない」。 ▼実際に経験した事例でいえば、「原稿用紙1枚分の文章を依頼したら何ヶ月経っても仕上がらなかった」、「連絡を取ろうとしてもお返事が一切ない」など。――協力関係を作る前提となるような社会的能力にトラブルがあるため、共同事業は事実上不可能になる。