井出はひきこもりに陥る過程について中心に話をしてみます。 原因論の方ですね。
ひきこもりに陥る場合、だいたい2つの経路を取ることが多いですね。 一つは、不登校を経由します。 【中略】 このパターンの時は、拘束的な環境にいる時が多いので、個人的には「拘束型」と呼んでます。
もう1タイプは、拘束的な空間から、まったく違う開放的な環境に移動した時ですね。 大学が一番危険性があります。 【中略】 開放的な空間でのひきこもりなので、「開放型」と個人的には呼んでます。
「中学・高校」と「大学」にそれぞれのタイプが多いというだけで、必ずしもこの地点で起こる訳ではありません。 環境が「拘束的」「開放的」と極端に振れることによって「ひきこもり」が発生するわけです。
ここで井出さんは、露骨に「ひきこもりの原因論」をされている。
私は拙著でも当blogでも、あるいはお邪魔した講演先などでも、「原因論」には徹底して慎重であり続けている。 政治的言説としてあまりに悪い形で機能することが多く、ご家族・ご本人の羞恥心や取り返しのつかない後悔の念を強く刺激し、有害に機能してしまうことが多いからだ。 ▼また原因論は端的に「ではどうすればいいか」と結びつく必要があるが、たいていは「甘やかしているのが原因だ。即座に放り出せばいい」にしかならない。 つまり「原因論」自体が、最初から特定の規範枠を無自覚に持っていることが多い。 ▼「拘束型」「開放型」という着眼自体はたいへん興味深いし、ぜひ参考にしたいと思うが、次のような諸点が気になる。
一般に「ひきこもりの原因」というときには、本人の特質、養育環境、初発時の条件、継続していくときの事情など、さまざまな要因が混同されて一気に論じられている。 何のどのような原因を論じているのかを明白に切り分けないと議論が無意味に紛糾するし、処方箋にも結びつきにくい。 ▼「ひきこもりの原因論」というのは極めつけの「火種」であることに留意しつつ、この議論の展開に注目したい。
*1:必要な事例数については、学問的な合意があるのだと思う。 ▼これは、凡百の引きこもり論が完全に無視しているところ。 ろくに実情を調べもせず、「どうせこうに決まってる」と粗暴な印象論をしているだけ。