「OFF」ではなくて「ON」

1月21日、神戸で「ひきこもり交流学習会」参加。 地元兵庫県でのイベント参加は、とりわけうれしい。
以下のような話をしてみた。

 元気に社会生活している方にとっては、「家に居る」というのは「OFF」なんだと思います。 だからそういう人が引きこもりを想像して、「ずっとOFFなんだろう」と思われるわけですが、限界的な引きこもり状態においては、まったく逆です。 「このままじゃヤバイ」、「どうしよう・どうしよう・どうしよう」とずーーーっと「針のムシロ」状態で、「24時間ずっとON」。 強迫観念的にONの状態をやめることができない。 本人も家族も、独特の緊張でヘトヘトになる。 ▼世間は引きこもりを「どうやってONにするか」と考えるわけですが、現実にはまったく逆で、むしろ「どうやってOFFにするか」が課題になる。

 たとえば「手を洗う」という行為は衛生上とても重要であり、合理的な自由意志行動ですが、「手を洗わなければならない」という規範意識が強迫観念化すると、たとえば食器用洗剤を使って手が血まみれになるまで洗い続けたりする。 こうなると、「手を洗う」という行為の合理的制御はできなくなる。 ▼ひきこもっている人は、順応への規範意識が「足らない」のではなく、むしろ強すぎて強迫観念化しており、ために融通のきく社会参加が出来なくなっている。 問題は、「○○でなければならない」という、もとは合理的であったはずの規範意識であり、それが強迫観念化していること*1

私自身は、社会行為が成立するにしたがって、要するに「仕事」ができるに従って、「OFF」を覚えるようになっていった*2。 ▼私が《交渉》を提案するのは、「将来に備えての訓練」ではない。 社会行為を家庭内に導入し、「ONとOFFの交代状態をもたらす」ことができるのではないか、と思うから。 ▼それをホッブズ・ロックなどの「自然状態」との関連で論じるのは変だろうか。 倫理行為を可能にする環境整備としての、《交渉−契約》。 【「契約」とは、「それ以上の合理的追求の禁止」ではないだろうか。】
この辺の話は、「《家族》を擁護する*3と語る斎藤環氏と、対立するんだろうか。▼『家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』で斎藤氏は、《家族》を再三「非合理」「理不尽」と論じ、そのうえで「擁護」しているのだが、実は「合理」と「非合理」の関係の作り方、ミクロとマクロにおける配置(設計)にこそ、もんだいの核心があるのでは。



*1:井出草平氏の論考を参照。

*2:実は「OFF」を実現するのに、他にも重要なファクターがあると思っている。それについても追々考えたい。

*3:via 『成城トランスカレッジ!