≪「生き生き」をめぐって≫

  • 仲正氏の「生き生き」批判は僕にとってどうしても必要なものだったが、『諸君!』は読んでいないし、事情がまだよく見えていない。 【追記:「双風舎からのお知らせ」】
    • 細かい議論は今後の課題にしたいが、ひとまず、「生き生き」のディテールを細かく分析する必要はあると思う。 たとえば右翼的な「生き生き」と、左翼的な「生き生き」はスタイルが違うはず。 ▼ジジェクがどこかで、自分の著作のモチベーションについて、「ナチズムとスターリニズムとが同じ《全体主義》として混同されたまま使われていて、それがすごいストレスだった」と語っていた(大意)。 同様の作業が必要と思われる。

先日触れたとおり、僕が「生き生き」に辟易するのは主にフリースクール系の文脈だが、かといってそのような「生き生き」言説の需要が尽きたわけではない。

この事件では、どうやら「どうしても学校に行かせなければならない」という親の切迫感が悪く作用したように読める。だとすれば、一時的にでも「不登校は選択するもの」という説得が必要かもしれない。
最近の不況と「ニート・ひきこもり」といった現象、若年者の就労不安などから、子供を抱える親たちの「脱落不安」が、以前より高まっている気配はないだろうか。価値規範としていくら「閉じこもっていてもいい」と言っても、現実にそれが「優勝劣敗社会の中での野垂れ死に」をしか意味しないとしたら、「大丈夫ですよ」は気休めにもならない…。*1
「生き生き」がどのように必要でどのように批判されるべきかは、個別ケースごとに是々非々で判断してゆくしかないのではないか。何よりも、そうした言説の歴史的位置付けに敏感であるべきではないか*2。 【主に、不登校・ひきこもり業界内に向けたメッセージ】



*1:しつこく付言すれば、斎藤環氏は「ひきこもる権利」を、過激なまでに肯定している(インタビュー時)。 それは、「いつか社会復帰してくれる」という留保すらないものであり、東京シューレよりもはるかに過激な「離脱肯定」であると言えるのではないか(価値規範として)。

*2:「歴史性」の重要さについては、知人からの示唆が大きい。