解釈権の拮抗

今回の案件においては、解釈権に関する3つの権威が絡み合い、拮抗している。その3つとは、

《運動体》  《アカデミズム》  《当事者》

である。とりわけ今回は「不登校」、すなわち既存の教育制度からの離脱・脱落がテーマゆえに、その論争は「既存解釈が掬えないものを黙殺・抑圧する暴力」をめぐって戦われている。

    • 東京シューレは、弱者たる不登校当事者を擁護し、その利益を代弁すべく発言する。シューレから見れば、貴戸理恵氏は「アカデミック・サークルの慣習で当事者の利益を侵害する者」であり、そこで抗議を行なうシューレ自身は、《運動体》として権威付けられる。
    • 貴戸理恵氏は、「自分の必要」があって今回の論文を書いたという。また調査者としての彼女は、支援者や親たちではなく、あくまで「当事者たちの声」そのものに照準を合わせ、それが結果的に「奥地圭子氏には取材も許可も取らない」出版に結びついている。つまり貴戸氏は、「不登校当事者たち」のニーズと利害にどこまでも忠実になろうとしたのであり*1、「アカデミズム」という舞台や手続きは、その当事者益に「奉仕するもの」としか考えられていない*2
    • 貴戸氏にあっては、みずからの不登校経験への「こだわり」に執筆動機の核心があるのだが、東京シューレ側(奥地圭子氏およびその賛同者たち)には、そのモチベーション(言説ではなく存在)の核がまったく見えておらず、貴戸氏の論文が「アカデミズム」あるいは「不登校を否定する既存社会の言説」のみに基づくように見えている。
    • 不登校当事者」としての貴戸理恵氏は、《運動体》としての東京シューレの成果から恩恵をこうむっていることを、『不登校は終わらない』、シューレへの「コメント」、私からの取材において、再三強調している。

不幸なすれ違いとしか思えない。
3つの解釈権威は、対立すべきものではなく、協力すべきものだと思うのだが・・・・。



*1:繰り返すが、その「当事者たちのニーズ」に貴戸氏本人のニーズがどの程度、どのようなメカニズムで繰り込まれたかが、今後の重要な検討課題になる。▼当然ながら、「当事者」各人が同定する主観的ニーズは、バラバラであり得る。

*2:貴戸氏は、「理論“そのもの”に興味はなく、自分の問題に関係することしか勉強する気にならない」という。