樋口明彦氏:「当事者=研究者=媒介者のトリレンマ」

私の話にツッコんでくださってる。
重要なのでメモ。(強調は引用者)

「当事者であることは政治的なことだ」という見解を耳にするが、それは言わずもがなの当り前だと思う。本当に重要なのは、誰に対して、どのような影響力を与えるかを見極めることにあると、わたしは感じる。
 (中略)
したがって、わたしは「自由な研究者」というイメージが嫌いだ。というのも、えてして研究者の単なるナルシシズムの発露にすぎないからだ。
いま必要とされているのは、このような硬直化した既存の役割を踏襲することではない。むしろ、その社会的機能を問い直すことにある。つまり、研究者という当事者として考えることなのだ。
 (中略)
何らかの価値にコミットすることから撤退するのではなく、価値へのコミットを慎重に吟味して、選ぶ作業こそが重要だと思える。その際、もっとも重要な判断基準が、「利害をもつ他者」にほかならない。
 (中略)
わたしが想定している研究者は社会制度の「媒介者」である。媒介者の社会的機能を考えた場合、研究者の役割とは、自身が属する資格に基づくのではない。むしろ、その役割は、社会制度や他者との関係性のうちから派生するのだ。そこにこそ、研究者という当事者が立ち上がるのだと思う。
言い換えれば、あらゆる人は、何かの「当事者」なのだ。重要なのは、当事者というカテゴリー、資格、地位ではない。自らがよって立つ具体的な場所を問い直す社会的機能にほかならない。

最後の段落などは何度も反芻したい。
支援団体とか家族とかについても言える。
樋口さんも示唆されているが、「制度論的精神療法」というのは、組織・スタッフ・活動対象者などをすべて「当事者」として問題化する方法論だ、と言ったら単純すぎるだろうか。