「抽象的思考」の是非

先日からわがコメント欄で大活躍の id:anhedonia さんですが、また興味深いご指摘をいただきました
セクシュアルマイノリティの世界では、抽象的な思考は排除されてはいない」そうです。僕は伏見憲明という方のお名前も知らなかったし、セクシュアルマイノリティについては何も分からないのですが、どうしてセクシャルマイノリティでは抽象的思考が排除されず、引きこもり(というマイノリティ)では、それが排除されてしまうのでしょうか


僕自身は、「すべての抽象的思考に意味がある」とは思わないし、残された時間をどうでもいいテーマに費やすのは嫌です。「本当に必要だと思う厳選されたテーマを、必死になって考える」ということに、僕の努力は向かいたい*1


id:ojahum さんへのお返事にも書きましたが、人生にしろお金にしろ、有限の資源をどう割り振るか、というのはそれ自体が政治的な決断。
もう1つ言えば、「ひきこもり支援にとって重要なテーマは何か」という判断自体が、政治的立場の選択だと思うのです。


「抽象的思考は必要ない」という判断自体が政治的決断だといえる。
というか、そもそもどこからが「必要のない抽象論」で、どこからが「具体論」なのか。 → その選別自体が、恣意的ではないか?


僕自身、「どの努力が本当に必要か」がはっきり見えているわけではありません。というか、当ブログは、その見極めを必死になってやっている、と言える。 ひきこもりの苦痛緩和」との関連で、「必要な努力は何か」を探しているのです
僕のやっていることをバカにしている人は、「何をすればいいか」について、もう答えが出ているのでしょう(政治的立場の選択として)。 → 分かっているなら、バカにしてないで、教えてくれませんか。「本当に必要なものは、どんどん学ぼう」という姿勢は持っているつもりです。
何をすればいいか、わかっていないのに僕を馬鹿にしている人は、その人自身が何か勘違いしてるとしか思えない。わるいけど…。



*1:「そこに僕のエロティシズムがある」とか言ったら、笑われるのかな。 → 死ぬ2週間前の三島由紀夫ISBN:4108007026 は、「≪美−エロティシズム−死≫が一本の線を成してる」とか語っていたけど、この単語をどんなニュアンスで使うかに、その人の思想のかなりのことが表現されるような。