なんでそうなるの

「天皇」云々と書いたことについて、「ガッカリした」「これで上山も過去の人だな」など、いくつかのブーイングが出ています*1。僕としては、「議論することに価値はあるかな」と問いかけただけだったのですが、「天皇」という単語を持ち出して引きこもりを論じようとすることそのものに、ものすごい幻滅・恐怖・拒絶反応が出ているようです。ナイーブというか…


天皇制が暴力や抑圧と無関係ではないとして、しかし「論題として取り上げることそのものを許さない」というのは、それ自体があまりに抑圧的ではないでしょうか。
誤解のないように言っておきますが、僕自身は、まだ「天皇引きこもり」の関係について、あるいはその関係をどう論ずればいいかについて、明確な立場や考えを持っているわけではありません


「引きこもり」が、「日本という悪い場所」*2特有の問題であるとしたら、その場所と「天皇」とはどう関係するのだろう、いや関係しないのだろうか――そうした議論だって、必要かもしれない(既存の不登校・ひきこもり支援は左翼的な文脈を持つことが多いので、こういう論点ならご理解いただけるでしょうか)。あるいは逆に、(ひきこもりという)社会的弱者支援、という観点から、天皇制に光を当てることはできないだろうか――など。
天皇論そのものがあまりに膨大だし、文献渉猟の専門的訓練を受けていない僕が取り組むのは無謀なのかもしれませんが、少なくとも「必要な論点」だけでも、析出できないものか。「みんなで一緒に考えてみましょうよ」という呼びかけだけでも、できないものか。そう思ったのです。


具体的な論点を明確にできていない段階でこういうことを言うのはとても空しいのですが、「考えてみる価値があると思ったし、勉強も(細々とでも)試みてみます」ということです。繰り返して言いますが、今の時点で何か明確な立場やビジョンがあるわけではありません。


引きこもり(およびその支援)には、「私たちは、私たちの経済生活をどう切り盛りしていくのか」、そしてその際の「継続的な自己管理をどうしていくのか」というテーマがあって、これはとうぜん種々様々の思想的立場を生む問いですから、キナ臭い論争が絶えません。支援団体間のイザコザも日常茶飯。
僕としては、「(社会的・精神的な)選択肢を増やす」ということを1つの目標と考えてきたので、検討可能な選択肢はすべて検討してみたい。それだけのことです。



*1:メール・掲示板、など

*2:椹木野衣