経験の凡庸さ

 神戸市垂水区の海神社に初詣。母と弟夫婦、1歳9ヶ月の甥。親が奮発してくれて高価いイタリア料理をご馳走になったが、食事中から胃腸の具合がおかしく、帰宅後に激しい腹痛と下痢、さらに全身に真っ赤なかゆいミミズ腫れ。明らかにアレルギー症状だが、カニと林檎以外にアレルギー源を自覚していない僕は原因がわからない。家族で症状が出たのは僕だけ。
 いつもこれかよ、俺の人生は要するに体に悩まされ続けるのだ、と思いつつ、「でもこの苦しみは凡庸だよな」などと思う。今日はそのことをずっと考えていた。自分の現象経験の凡庸さ。「凡庸でない」経験があるとしたら、それは芸術や学問における飛び抜けた成果か、逆に極端な悲惨さではないか。いや、極端な悲惨さというのは実はこの現象においてはありきたりであり、悲惨さの極北には死があって、死はとてつもなく凡庸だ。――つまりこの人間世界において「凡庸でない」人生経験は、学問と芸術における「新しい創造」にしかない。
 非凡さなんてほとんど実現できない。非凡を目指すこと自体が凡庸なのだし。愛情生活にも職業生活にも期待することがないとしたら――残りの時間のすべてが凡庸な苦痛の連続でしかないとしたら――、これから何をモチベーションにすればいいのだろう。≪もはや期待しない≫には何か破滅的な響きがある。