当事者論を組み変えるために 5

酒井泰斗さんへのお返事であり、「」のつづきです。】


私がエスノメソドロジー(EM)に求めたのは、
投げ入れられた状況に一方的に流されたり利用されたりしている人に、

 状況を問題化するための手続きを与える

ことであり、例えば以下のような必要がありました*1

  • 記述したディテールが、責任追及のための証拠価値を持つ
  • 一方的な被害者意識ではなく、関係や事案のオリジナルな言語化を手助けする
  • 誰に対しても、逸脱や制度順応そのものを口実にさせない
  • 問題処理のパターンそのものをテーマにできる



現状のひきこもり論は、「わかりやすいけど、必要なことを考えてない」ような議論ばかりだし、たとえば「法的に」取り組んでも、必要な問題構造を扱ったことになりません(訴訟が意味を持てば別ですが)。


以下で詳しく論じますが、

    • 弱者に味方しているから許される
    • 学問的に語っているから許される
    • ○○当事者だから許される

この3つが、それぞれ並行的に居直っている・・・・というどうしようもない状況に少しでも変化を起こしたい。 そのために、ひょっとするとエスノメソドロジーが参照できないか――それが興味の核心でした。


私はまだ、「EM に殉じることは、当事者論をめぐる責任の放棄かもしれない」という疑いを持っています。 逆にいうと、当事者という概念の使われ方に変化を起こすことが、どうしても必要です。

概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』合評会からお付き合いいただいた一連のやり取りは、酒井さんに EM を教えていただくだけでなく、自分の方針を考え直す機会にもなりました。 私の発言がガラパゴス的な偏りをもつとすれば、それを理解される形にし、社会を変える動きにするには、努力のあり方を変えざるを得ません。


私は2004年以来、ひきこもりの《支援者/取材者/研究者/当事者》などを名乗る人たちから、「発言活動をやめろ」という集団的な圧力を受け(参照)、かつそのいきさつを隠すことを要求されています。 ブログの継続はそれへの抵抗でもあったのですが、回路を考え直す必要がありそうです。

以下では、私が活動停止を要求されるいきさつの一部を記して、私の酒井さんへの質問とお返事の、ひとまずの区切りにしたいと存じます。


「ひきこもり経験者は発言するべきではない」という意見は、大きく次のような事情をもちます。 



*1:学問や方法論には、ディテールを言葉にする欲望を禁止せず、むしろその機会を与えてほしい。 それが結局は、苦痛を和らげる価値をもつから。 《制度を使った方法論》は、そういう意味で不可欠の論点を含むのですが(非常に独特の疎外論です)、私はそのうえで、「合意形成についてはうまくいっていない」と考えています。

(1) 《代表 representation》の問題

  • 「ひきこもるいきさつは多様なのに、一部の人が代表ヅラして語ることで、実際に苦しむ人たちが抑圧される」という、それ自体は正しい意見。 しかしこれは、代表制のウソを自覚したうえで相応の政治的発言を試みたり、内在的に《苦痛の秩序》を分節する作業まで禁じてしまっている。

中には、「異性愛男性である上山さんが発言すると、女性や性的マイノリティの引きこもり当事者が抑圧されるから、黙るべきだ」という意見もありました*1

ここには、

 ひきこもり経験者として実体化される(「これこそが引きこもりだ」)

という当事者論だけがあって、

 本人が内面や状況を分析的に実況中継する*2、内側から責任を考え直す

という当事者性がありません。
発言努力はあっても、「○○当事者」というポジションへの居直りで、特権化や差別があるだけです。 この状況とどう戦うか。


「ひきこもり」だった僕から』という拙著のタイトルも、人を実体化する誤った当事者論に加担しています*3。 私は、間違った当事者論で共犯を働いたことを反省つつ、今はやや違う焦点に取り組んでいます。

    • 「○○当事者だから」と検証もされずに特権化されるのがおかしいのと同様に、「○○学だから」関係責任が免除される、というのもおかしい*4。 許されたり糾弾されたりするあり方を一度ペンディングして、秩序実態を分節し直すことが必要。 【その問い直しは、苦痛緩和のための主体構成の提案にもなっているのですが、これが最も伝わりにくい点でした。私の宿題です。】
    • 私は全てのポジションに対して当事者的な活動を提案していますが(素材化)、いつまでたっても《ひきこもりの代表》を演じる自己顕示と見なされ、発言ポジションもそこに限定される。 というより、私を単に《代表》と見なすことで、「ご自分の関係実態をこそ考え直してください」という呼びかけが抑圧されている*5
    • 当事者性の自覚は、関係責任と欲望への直面であり、いわば地味な制作を必要とする(参照)。 ところが現状では、「誰がスポットライトを浴びるか」というナルシシズムの競争になっている。 【スポットライトの枠は、同時に被差別民の枠でもあります。それゆえ、人を実体化する当事者論は、差別に加担しています。これがどれほど深刻であるかに、支援者や “当事者” たちが気づいていません。】




*1:この意見を述べたかたは、ご自身が異性愛の男性なのですが、私には発言活動を許さないのに、ご自分は「マスコミ取材を受けさせてほしい」と求めていましたから、言い分としては破綻しています。

*2:cf.「自分の思考を強いるものに到達しようとする試み 〜現場に渦巻く情念の的確な実況中継」(三脇康生

*3:拙著が二部構成になっているのは、前半が《素材》であり、後半がその分析になっている、といちおう言えます。 ベタな自己提示ではなく、《体験を素材化する》という努力構造の提示です(当時は、今ほど自覚的ではありませんでしたが)。

*4:場面に応じて《ひきこもり当事者》と《学者》の自分を都合よく使い分け、それぞれの役割恩恵に居直る者もいます。 ここでは、役割を固定することで問い直しが拒絶され、順応主義的な責任回避が嗜癖化しています

*5:たとえば、私にセクシュアリティの告白を要求するある支援者は、ご自分が女性を傷つけたいきさつについては《当事者発言》しません。 「支援される側」にのみつらい発言をさせて、ご自分がセクシュアリティに責任を持つ “当事者” であることを抑圧するわけです。 これは、被差別民にのみ当事者発言をさせる、それ自体が差別的な振る舞いでしかありません。 ▼性的関係性の実態を問い直したいのであれば、むしろ健常とされる人たちの実態こそが、容赦なく検証されるべきでしょう。 ところが彼らは、自分たちについては口をつぐみ(問われる必要のない正常さと見なし)、マイノリティへの覗き見趣味だけを満足させるわけです

(2) 《正常な社会参加》という保守的な理念

つながりの作法を自覚しない関係性では、同じ正当化のパターンが反復されており、その意味での順応主義が当然視されています*1。 逸脱者に受容的な共同体でも、そのコミュニティ内部の《つながりの作法》は絶対的であり、そこからの逸脱は糾弾の対象になります。
そうしたベタな関係性では、順応努力そのものに生じる苦痛機序は、考察されるチャンスがありません。 固定された問題意識のフレームが、ほんらい必要な(換骨奪胎的な)問題意識を排除しています。

    • 弱者擁護のイデオロギーを反復してさえいれば、いくら差別的でもコミュニティに受け入れられる。――ここで抵抗するには、差別発言を行なった個人だけを攻撃してもダメで、人のつながりが反復する作法そのものと戦わねばなりません。 とりわけ、差別反対を建前とする左翼コミュニティに骨の髄まで蔓延する差別主義については、共同体の根本体質から問い直さねばならず、この問いを抜きに差別がどうだと論じても、まったくのゴミです。 論者本人のアリバイ工作にすぎない。
    • 継続参加ができないひきこもり問題では、《正常な参加》それ自体を問い直す必要がありますが*2、自分たちの共同性のあり方を信じて疑わない人たちは、支援対象者(逸脱者)を名詞的に実体化・特別扱いしたうえで、この者を単に自分たちの作法に合流させようとします。 それゆえ、ベタで無力な逸脱は許されるが、関係作法そのものを考え直すことは許し難い逸脱とされる*3。 存在は受容されるが、言葉は排除される(参照)。
    • 「ひきこもり当事者」なら身分支配を受けるべきだし、「健常者」なら黙って順応せよ――この状況を言語化する作業(そういう形で始めてしまった社会参加)は、意味のないプライベートな難解さか、反社会的な逸脱としか見なされません。



彼らの支援論にあっては、人は「本当に引きこもっているか、それともすでに合流しているか」のどちらかであって、《ひきこもり》というテーマそのものに踏みとどまって考え直すことは、不当な嗜癖に過ぎないとされます*4。 とはいえこれは当たり前でもあって、自前の制作過程を内側から立ち上げてしまうと、どうしても政治化するため、ベタな受容は期待できません。



*1:すでにある作法だけが《正常》と見なされるのは、保守ばかりではありません。 事後的な再検証を拒絶するスタイルが、それぞれの集団的ナルシシズムのパターンになっています。(たとえば宮台真司氏の読者では、「あえて」という言い訳が嗜癖化し、事後的な再検証を拒絶しています。)

*2:《主体構成のあり方》が苦痛機序の一環である点で、部落や民族、ジェンダーやセクシュアル・マイノリティなど、ほかのマイノリティ問題とも事情が違っています。 精神の疾患や障害をめぐる既存の左翼言説は、《他者の存在を受容する規範言説》ですが、主観構成のあり方そのものが内在的に苦痛要因になっている場合は、単に《他者を受容する》では足りません。 そしてむしろ、他者の全面受容などできるわけがない(それは強制労働に過ぎない)。 ▼知的言説の構成のされ方は、「学問の方法論」であるばかりでなく、主観構成のあり方や、他者との関係性のあり方まで規定してしまいます。

*3:ありていに言えば、「精神疾患者は許されても、政治犯は許されない」。

*4:工藤定次脱!ひきこもり』の「はじめに」や、『月刊少年育成』(2004年8月号)掲載の座談会「「ひきこもり」議論がうっとうしい」 では、ひきこもり経験者がひきこもりを論じることが、内容面に関して批判されるのではなく、行為そのものとして否定されています

順応主義者であるという逸脱

所与の学問制度に乗っかるだけで引きこもりを論じることは、むしろ許しがたい逸脱です。 順応そのものが問題なのに、その専門家を自任する人たちがベタな順応者でしかないとは、どういうことなのか。 【⇒エスノメソドロジーは、順応そのものを主題化する議論ジャンルや、それを主題化できる専門家の教育プログラムであり得るでしょうか。】


ひきこもり問題から析出されるモチーフは、ひきこもりという社会問題に幽閉されるものではない――というより、そうやって幽閉しようとすること自体が害悪です。 参加現象が反復する形式そのものが問い直されるし、逆に言うとそういう議論のできない人には、この問題を内在的に扱うのは無理です。 論じている本人が自分の参加(正当化の秩序)を検証できないのに、どうして誰かの参加を論じられるのか。
「アカデミズムに順応している自分が、逸脱者である引きこもりを論じる」みたいなあり方は、それ自体が引きこもりの苦痛機序を再生産しています。


既存の対人支援は、「強引でもいいから繋がったことにしてしまう」ことであり、一度そこで繋がりらしき錯覚ができあがれば、原理的な問い直しは排斥され、古臭いままの関係作法が居直ります。 ⇒ つながり方そのものへの問い直しを拒絶する場当たり的な《仲良くなろうごっこ》が空しく繰り返される。


ひきこもり経験者の一部は、社会復帰後にはむしろ極端な体制順応者になり、権威主義的な言動をとり始めます。 彼/女らにあっては、「とにかく自分が順応者になること」が目指されているだけであり、私が強調しているような《当事者的な問題化》は最初から排斥されています。 【彼らは、カテゴリー的に自分を「ひきこもり当事者」として恩恵をむさぼろうとしたり、逆に過剰にそれを隠そうとするばかりで、《カテゴリー設定が居直ること》そのものを考え直そうとはしません。】
そして考えてみれば、支援者や知識人じたいが、デリケートな当事者化を拒絶している。 私は、全員を当事者化するのに協力してもらえるような手続きや方法論を探しています。


【「」につづく】