斎藤環 『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』 について 2

ueyamakzk2007-10-24

その1】、 【その3】、 【その4


少し間が開いてしまいました。
オフラインで取り組んでいた仕事も、今回の斎藤本批評と同じテーマでした。(作業は継続中で、遠からず皆さんにご紹介できることを目指しています。)
以下の論考は、基本的には一つのモチーフをいろいろに説明しています。形になりつつある私なりの反論の、背景説明や覚書として読んでいただけるとうれしいです。(このテーマは、今後もずっと継続していきます。)





「考え方」自体を分析対象にする

本書「はじめに」より(強調は引用者)。

 私は精神分析医ではありません(「日本精神分析学会」と「日本ラカン協会」のメンバーではありますが)。 分析理論の知識は、ほとんどが論文や書物を通じて学んだものばかりです。 なかには知識の偏りや誤解が含まれているかもしれません。 しかし率直なところ、臨床家としての私は、「正確な知識」などどうでもいい、と考えているところがあります*1
 一番大切なのは「考え方」です。 理論というものは、「考え方」を鍛え、より複雑で洗練されたものにしていくうえで重要なのです。



ひきこもりへの対処や「支援」というのは、ややもすると限りなく陳腐で「わかりやすい」スタイルに落ち込んでゆく。巨額の予算が投じられる「ニート支援」をはじめとして、それら「支援」スタイルの根幹になっている思想は、ちょっと途方に暮れるほどありきたりだ。「集団生活で社会性を」「規則正しい生活を」「自然とのふれあいを」云々。わかりやすすぎる。斎藤がよく言うように、たしかにそうしたものですら確率的にうまく機能することがあり得る。しかし、思想と現場との緊張関係が決定的に問われるはずのテーマで、支援者の思想それ自体がしっかり検証されるのでなければ、支援は、目的だけが先に決まったやっつけ仕事ばかりになる。


私は、支援者や本人の「考え方の枠組み」が硬直していることに、最悪の “臨床的” 問題を見ている。その意味で、支援者や理論家の側にも「臨床的な」問題が残っている*2関係の中で主体そのものが立ち上がってくる、そのプロセスとしての困難や危機をそれ自体として主題化しなければ、ひきこもりに固有の困難を扱ったことにはならない。
そこを主題化しなくてよいなら、ひきこもりに関する専門的議論は、生物学的精神医学、労働運動、社会政策論などに還元できる。逆に言うと、そうした既存ジャンルで何百年語っても、ひきこもりに内在的な主体の困難をそれ自体として論じたことにはならない。 斎藤環のひきこもり論は、「ひきこもりの苦痛」を静止画像として(つまり「実体化」「再帰性」などとして)描くことにはたいへん鋭いが、さてそこでその困難にどう取り組めば良いのかとなると、「好きにさせることで、欲望を見出してもらう」以外の指針が見えてこない。



*1:ラカン派を標榜しながら、教育分析を受けておらず、学者的な文献研究もしていない立場からの、積極的な(あるいは反論としての)エクスキューズという意味もあるかもしれない。▼これは、「理論と臨床」についての、重大な態度表明だと思う。ここでこそ、徹底的に「考え方」を練り上げる必要がある。(以下の私は、ずっとそれを問題にしている。)

*2:「考え方の制度的硬直」という、臨床的な問題。ただしこれは、「周囲が悪い」「社会が悪い」という一方的な話ではない。ひきこもっている本人自身の思考も、制度的に硬直している。

斎藤の議論は、いわば「成功した欲望のフレーム」から為されている。

斎藤の場合、「精神科医がオタク趣味を持っている」というより、「オタク的な欲望フレームで精神病理学をやっている」というほうが当たっている。
彼の欲望フレームがひきこもりを対象として見出し、そこで描写している。 ひきこもりに関する表象がさまざまな理論装置を使って分析されるが、その描出結果は、ひきこもっている人の「自意識」にはなっても、着手自体のヒントにはならない。プロセスとして経験される主体の危機は、そのまま放置される(偶然性にゆだねられたまま)。
欲望フレームを樹立できていない人が現時点において何をすればいいのか、自分の作業場をどう構成すればいいのかについては、「成功した欲望とはこのようなものである」という完成形を示す以上のことができていない。
「欲望に関して譲歩するな」という方針が口にされるが(参照)、譲歩しない欲望が立ち上がるプロセスがどうやって着手の筋道を見出せばよいのかについては、「完成形の提示」と、「偶然の出会いに向けたせき立て」以上のことをしていない。既存の転移フレームへの直接的順応を勧めるだけで、すでに生きてしまっているフレームへの分析や組み直しをしないため、つねに同じ苦しみのフレームが回帰してくる*1。 元気になっても、再帰性や実体化へ向かう考え方の筋道(くせ)は、原理的に別の作業ヒントを得たのではなく、たまたま別の道に「ハマれた」にすぎない。 これでは、「思い出してしまったら」、また同じヤバさが始まる。



*1:香山リカの「精神医療にゲームを活用」にも同じことが言える。

「欲望フレームへのせき立て」ではなく、「フレーム自体を作業場にする」必要がある。

本書の斎藤は、親御さんへのアドバイスとして、「安心してひきこもれる環境作りを」 「まず害をなさない」 「やりたいということはやらせてみる」という。 これは、いくら説得してもどうしても〈説教〉を始めてしまうご家族に対してはぜひとも必要なガイドラインだが、ひきこもっている本人側から見ると、「早く欲望を持つように急き立てられている」のであり、それ自体が再帰性の温床といえる*1。 しかし、問題にするべきなのは、「欲望が抑圧されて筋道を見出せずにいる」こと、そのフレームの硬直であるはずだ。私は、そのフレームをこそ欲望の仕事場として提案している。


斎藤のアドバイスでは、「どうやれば自発的な欲望を持ち得るか」については、具体的な欲望対象やそれに向けた生活スタイルが、外的選択肢として提示されるにとどまる。読書や映画を勧めたり、「オタクになればいい」とする斎藤は、「こういう欲望の実在例があるよ」と、既存の欲望の型に向けて誘っているだけで、ひきこもっている本人自身に抑圧されたフレーム形成的な衝動をそれ自体として活用する方針になっていない。ここで私が繰り返し問いたいのは、その抑圧された衝動がフレームを取りにくいということだ。


p.157では、「戦争が好きなので外国の軍隊に入りたい」という本人の希望をそのまま承認するケースが出てくるが、それがいっけん反道徳や反社会に見えても、「すでに存在する欲望フレーム」への《順応》が推奨されていることに変わりはない。
欲望の進む道が、結果として過激になる必要などまったくないが(それ自体が目的なのではない)、問題は「筋道の作り方」について、ほとんど臨床的な、あるいは有益な論究がないこと。筋道は、単に既成事実がポンと提示されるか、漠然と「なんかないですかねえ」とあいまいにぼかされ、そこでフレームを「偶然見つける」ことが目指される。フレーム自体が作業場になることがない*2



*1:「早く欲望を持たなければ」

*2:私はまさに、「フレームを作業場にする」ことに気付いてから元気になってきている。そしてそのことが、ひきこもりの「再帰性」や「実体化」にとって内在的な意味を持つと感じている。

「順応済みの主体」によるポジション・トークではなく

社会は、既存の承認された欲望スタイルしか、私たちに提示しない。しかし、取り組む道はそれだけではない。何かが着手されるときの「関与の手続き」にこそ、主体が成り立つプロセスの、危機の政治が賭けられている*1。 斎藤の議論は、ここで「譲歩するな」というだけで、あくまで観察者の地位にある。逆に言うと、ひきこもりに関わる斎藤自身の主体は、そのように振る舞う観察者の地位において、主体構成の問いを「解決済み」にしている。その主体構成において取れるポジションを演じることしかできない。
主体の構成は、お互いの関係の中でも決まってくる(そこに責任も生じる)。 お互いがどのような関係をベタに生きてしまっているのか、そこの分析意識を共有するのでなければ、ベタな関係性への隷属しかできず、その関係に振り回され、「ベタな関係への恐怖症」からいつになっても自由になれない。既存の欲望フレームへの順応には、そういう恐怖がつねに憑いて回る。 すでに役割の決まったフレームに順応できたことを事後的に誇示されても困る。(それは、お互いの関係フレームの固定化にあたる。)


カニアンとしての斎藤環は、理論的なテーマとしては「欲望の政治」を最も先鋭的に考えているはずだが、臨床家としては、「寄り添う」か、「観察する」しかない。 転移操作としては、「決まったフレームの提示」と、「偶然の出会いに向けたたゆたい」しかない。 これでは、素朴な順応主義の手法と、(少なくとも臨床技法としては)何も変わらない。 過激な欲望を理論的に*2扱いつつ、それが実際の社会参加の方法論に内在的に組み込まれていない。
欲望の倫理を過激に語るカニアンとしての斎藤と、素朴な欲望フレームへの順応を勧める臨床家としての斎藤は、内在的には出会わないままに見える。 これは、欲望のフレーム自体を作業場とすることのないラカン派の限界にも見える。


その3に続く


*1:ひきこもる主体の危機は、「みずからを政治化できない苦しさ」と表現できる(参照)。 ここを扱わないとどうしようもない。

*2:オタク的に?