「欲望フレームへのせき立て」ではなく、「フレーム自体を作業場にする」必要がある。

本書の斎藤は、親御さんへのアドバイスとして、「安心してひきこもれる環境作りを」 「まず害をなさない」 「やりたいということはやらせてみる」という。 これは、いくら説得してもどうしても〈説教〉を始めてしまうご家族に対してはぜひとも必要なガイドラインだが、ひきこもっている本人側から見ると、「早く欲望を持つように急き立てられている」のであり、それ自体が再帰性の温床といえる*1。 しかし、問題にするべきなのは、「欲望が抑圧されて筋道を見出せずにいる」こと、そのフレームの硬直であるはずだ。私は、そのフレームをこそ欲望の仕事場として提案している。


斎藤のアドバイスでは、「どうやれば自発的な欲望を持ち得るか」については、具体的な欲望対象やそれに向けた生活スタイルが、外的選択肢として提示されるにとどまる。読書や映画を勧めたり、「オタクになればいい」とする斎藤は、「こういう欲望の実在例があるよ」と、既存の欲望の型に向けて誘っているだけで、ひきこもっている本人自身に抑圧されたフレーム形成的な衝動をそれ自体として活用する方針になっていない。ここで私が繰り返し問いたいのは、その抑圧された衝動がフレームを取りにくいということだ。


p.157では、「戦争が好きなので外国の軍隊に入りたい」という本人の希望をそのまま承認するケースが出てくるが、それがいっけん反道徳や反社会に見えても、「すでに存在する欲望フレーム」への《順応》が推奨されていることに変わりはない。
欲望の進む道が、結果として過激になる必要などまったくないが(それ自体が目的なのではない)、問題は「筋道の作り方」について、ほとんど臨床的な、あるいは有益な論究がないこと。筋道は、単に既成事実がポンと提示されるか、漠然と「なんかないですかねえ」とあいまいにぼかされ、そこでフレームを「偶然見つける」ことが目指される。フレーム自体が作業場になることがない*2



*1:「早く欲望を持たなければ」

*2:私はまさに、「フレームを作業場にする」ことに気付いてから元気になってきている。そしてそのことが、ひきこもりの「再帰性」や「実体化」にとって内在的な意味を持つと感じている。