実体化――「穴を詰めるような意識」

ひきこもりにおいては、意識の中の「穴」のような部分に意識が固着し、そこに自意識的に集中するのをやめることができない。 自分の鏡像を引き絞るための穴。 つねに脅迫されているような。 ▼「息を詰める意識」でようやく自分のまとまりを保っている。 対話的・臨機応変的に息を始める方法がわからない。
被害者あるいは加害者になってしまうかもしれないという、休みを知らない被害者意識。 この状態にとどまるかぎり、自分の現実を正当に評価できない。
おそらく、ナルシシズムと同じ枠組みだが、承認されるナルシシズムの陶酔ではなく、ひたすら自意識の疼痛がある。 それは、思いつめた姿でもある。
「自分の中の自分以上」から、一瞬も目が離せない。





「文脈」と「制度」

4月18日、三脇康生氏のお招きで仁愛大学のゲスト講義にお邪魔。
ラカン精神分析を参照する斎藤環氏と、ジャン・ウリ*1ガタリらの「制度論的精神療法(psychothérapie institutionnelle)」を参照する三脇康生氏は、理論的なお立場として対立関係にあるはずだが、私は個人的にお二人の両方から、理論的・臨床的に*2恩恵を受けたと感じている。 このお二人の間にどんな議論があり得るのか、とても気になっている。
斎藤環氏の「文脈(コンテクスト)」、三脇康生氏の「制度」は、ともに「ゲームのルール」の話をしているように見える。 現実をうまく構成できないと感じている私は、この両者に、去勢のフレーム問題を見ている。 制度論は、去勢=転移のフレームが固着することを避けようとしているように見える*3。 逆に言うと、80年代に喧伝されていたドゥルーズ=ガタリの思想は、ひたすら分解や多様性を称揚しているのみに見えてしまい、自分がうまく組織できずにいた私には耐えられなかった。





*1:ウリはラカンの弟子で、『アンチ・オイディプス』出版時、エディプス構造を認めないガタリらの主張に激怒したとのこと(三脇氏の論考より)。

*2:お二人は精神科医だが、私はどちらに対しても、契約上の「患者」になったわけではない。 それぞれの理論的なお仕事のおかげで、個人的に楽になれたということ。

*3:私の「制度論」についての知識や理解は、『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』、とりわけ三脇康生氏の論考を参照している。

「1%でしかない部分に縛られている」

仁愛大学で同じくゲスト講義に来られていた松嶋健氏の、次のような発言が刺激的だった*1

 大学教授であるとか、医者であるとか、ひきこもりであるとかいう社会的な存在理解があまりに支配的になり、私たちの意識を縛りつけている。 しかしそれは本来、人という存在のいわば1%ぐらいのことでしかなく、あとの99%は、人間が意識的にコントロールしようと思ってもできないような、「生きもの」として生きている次元にあるのではないか。 私たちは、単に生きていることの途方もない豊かさをしばしば忘れている。

80年代には、「多様性を肯定するだけのチープなナルシシズム」としか見えなかったドゥルーズ=ガタリに、別の可能性を感じている。
ただ、そうした生命の肯定が、次のような諸点をどう扱うのかが分からないでいる。

    • 「生命の肯定」を無条件の至上命題にすると、全体主義にならないか。




*1:掲載は了承済みだが、ここで要約したのは私の理解した大意でしかない。