「処理の完遂」と、「終わりなき」の構造

ひきこもりの自意識は、傷口そのもののように膿み続ける。
強迫的な再帰性は際限なく意識の秘肉を痛めつけ、痛みを感じることが現実を感じることに等しい。 傷の再生産以外に、現実を感じられる場所がない。
外界の狂乱に巻き込まれれば、再帰的な確認のタスクが増えすぎてわけがわからなくなる。 意識が、引き裂かれた虚無感でしかなくなる。
社会的意識の再起動は、自動的に再帰性の再起動になり、傷の再生産にしかならない。
「社会復帰せよ」「お前はクズだ」――こうした声は、本人の中にすでにある再帰性の声をなぞっているにすぎない。 「自らに対して、処理を完遂せよ」


どんなに熟練しても、外界の動きはわれわれの処理スペックを超えている。 規範の強迫化は、足かせにしかならない。
関係に巻き込まれれば、共同体的自意識がますます自分を縛りつけ、ますます身動きが取れない。 いずれにせよ、処理は追いつかない。
処理が追いつかなければ、必ず失態とトラブルに巻き込まれる。


トラブルは、「言いたいことを言うな」という抑圧と、「お前の責任でなんとかしろ」という過労を強いてくる。
「悪いのはお前だ。自らに対して、処理を完遂せよ」
ここでは、トラブル処理の動機づけは、最初から前提されている。
だからここにあるのは、動機づけの政治にあたる。
ひきこもっている人は、この動機づけの政治において、徹底して負ける側に回る。 周囲と同じ規範に従って、順応できないのは自分のせいであるとなれば、政治もくそもない。 「???」とクエスチョンマークのように体験された倫理的動機づけは、自分の中で、見えない小さな声として、黙殺される*1
必要なのは、それぞれの動機づけを見据えた上での公正なジャッジだが、

    • 「サービス」に支配された現実社会のルーチンワークは、公正さよりは、「処理の完遂」を優先する*2
    • 左翼的な理念主義は、問題のディテールよりは、運動体のイデオロギーを優先させる*3

いずれの運動も、すでに動機づけがインストールされており、聞く耳を持たない。


作業の継続は日常的に必要であり、一切の労働・運動は「プロセス」として遂行される。 一つ一つの作業は完遂させなければならない。 だから問題は、「終わりなき要素」をどこに置くか。――「終わりなき」の要素が実現される構造そのものが、「動機づけ」のスタイルになっている
私はその「終わりなき」を、意識に実装された《倫理としての欲動》、それに基づく「事後的な分析」に求めている。 それは、すでに欲動において生きられていた再帰性の枠組みを、そのまま倫理的な枠組みとして活かすことを意味する。 再帰的な自己検証は、終わらせるべきではないし、終わらせることもできない。

  • 無理やり終わらせようとするのが、宮台真司氏の「まったりせよ」であったり、斎藤環氏の「オタクになれ」であったりする。 これらは、自意識の努力によって自意識を終わらせることを目指しているが、やはり無理だと思う。 「まったり」も「オタク」も、なれる人は言われる前からなっているし、なれない人は意識しても強迫化する。 ▼「まったり」も「オタク」も、なれる人を否定する必要はまったくないが、ここでは、「なろうとしてもなれない」事例を問題化している。
    • 斎藤環氏は、以前から「ひきこもっている人が、オタク系の文化を下に見がち」ということを書かれていて、だから「自意識を捨てて、自分にオタク趣味を許してあげよう」というわけで、そのこと自体は私も批判する気はない*4。 ただ、実際にオタクになろうと努力したのになれなかった私のような人間は、そのことでかえって自意識の焦燥を強める。 そこに発生する焦りは、「働くことの出来ない自分」への焦りと同じだと思う。 「オタク趣味を加速させれば、社会順応できるかもしれないのに、自分にはできない」――けっきょく、「順応できない自分」への焦りを再生産してしまう。 ▼問題は、自発的・内発的な要素をどこに見るかということ。 私は、再帰性そのものに狂暴な内発性を見ているが、斎藤氏は、「潜んでいるかもしれないオタク趣味」に、それを見出そうとしている。






*1:私の議論は、ほうっておけば黙殺されるしかないその動機づけの声に関わる。

*2:悪いとばかりも言えない。 お金の問題は、どこまでも残る。

*3:抵抗運動の遂行に、このような暴力性が一定の意義を持ち得ることはたしかなんだと思う。

*4:私自身も、一部のゲームや古いアニメについてなど、マニアックな会話に興じることが出来る。 そのこと自体はとっても楽しい。

傷とアファニシス

ひきこもりは、死とトラブルを恐れた状態にある。
外界に関われば、必ずトラブルに巻き込まれるのだから、――というよりも、外界に関わって生き延びるとは、「トラブルをやりくりしてゆくこと」だから、
揉めごとに関わってもあえて自己主張できる強さをもてなければ、つまり泣き寝入りしないで自分の存在と意見を主張してゆくという狂信的な固執をもてなければ、
わざわざ社会に関わって自分を維持してゆくことはできない。
私はずっと、その狂信的固執の淵源を問題にしていた。
ひきこもっている人間は、その「狂信的固執」を、これ以上ないほど失っている
失うことにおいて狂信的になっている。


再帰的に自分を問い直すことをせずに生き延びられる人は、自分を維持する狂信的淵源について、それをすでに無自覚に保持している。 そのスタイルを身につけている。 すでに身につけた人からできない人を見ると、「なんともだらしない」と見える。 逆に一度その固執を失った側(ひきこもり)から見ると、意識的に覚醒して狂信を失ったのに、どうしてふたたび狂信を再生できるのか、と思う。 傷がどうしても狂信を許してくれない。


私が持ち出そうとしたのは、そして実際に自分が生きてみているのは、「傷そのものを狂信として生きてみる」という作業にあたる。 傷に再帰的に立ち返りそこで分析的に生きてみることは、私に言葉への過剰な情熱を呼び覚ました。 私はその情熱を生きることで社会生活をつないでいるにすぎない。 ひきこもった情熱*1と、努力を続けている情熱は、別のものではない。 ▼「精神力で」つないでいるのではない。 継続への固執は意識に肉体的に実装されていて、私が意識の肉を保つかぎりはその淵源が尽きることはない。 外部から固執を押し付けたり、無理やり執着を生み出そうとするのではなく、すでに生きてしまっている固執(傷)を淵源として、メタ的・分析的な自己吟味を徹底的に(ていねいに)生き抜いてみること。
その語りは、主知主義的に自分を窒息させること(アリバイ作り)ではなく、致死的な享楽の道行きそのもの。 他の道では、私はすぐに脱失(アファニシス)してしまう。
アファニシスが起これば、私は社会関係を維持できない。 スペックに支配された「コミュニケーション」*2だけでは、いまでも中間集団を維持できない。 人間関係がわからなくなる(すべて廃絶)。 そうした関係は、トラブルを維持してまで帰属・継続すべき何かではない*3
これは事後的な認識だが、わたしは、固有性にもとづく「関係性」を、欲動の倫理にしたがう形でしか維持できない。 このことは、自己と社会関係を倫理的に維持するための、核となっている。 偶然の出会い*4から始まった事後的な分析労働の遂行が、生まれてから一度も成功したことのなかった関係性の運営を可能にした。 【何度も言うが、「コミュニケーション」は耐えられない。】
ひきこもり的心性においては、「それしかできない」ということと、倫理的選択とが、症候的に踵を接している
心理的な傷や欲動が問題になっているとしても、「孤立した心理学趣味」とか、「傷ついた僕を分かって」では、継続的な社会参加(トラブルそのもの)を運営するための、倫理的なエンジンを調達できない。 それでは、自滅的に参るしかなくなる。



*1:「本人の意図を超えて」という塩倉裕定義を尊重したい私としては、この言い方には抵抗がある(cf.芹沢俊介引きこもるという情熱』)。 しかしここでは、ひきこもること自体が「本人の意思を超えて」途方もないエネルギーを要する、その逆説的な事情を考えている。 私は、その逆説的な事情を殺すのではなく、それ自体を生きようとしている。

*2:参照: 「「関係性」と「コミュニケーション」の差異について」(斎藤環氏の提言)

*3:トラブルの維持よりは、泣き寝入りと「家の中での暴発」しかなくなる。 ひたすら自分を責めることと、ひたすら相手を責める無力と。 具体的な交渉・折衝関係に入れない。

*4:ひきこもりの親の会の関係者との出会いと、その親の会でのカミングアウト発言、それへのレスポンス。 親の会での反響がなければ、そもそもこのような形での活動や情熱があり得るということ自体に気づくことができなかった。