本田由紀氏の「ひきこもり」理解について

いくつかのTBでの指摘(私のエントリーを含む*1)について、本田氏が「ひきこもり」に特化した言及をされている。 『「ニート」って言うな! (光文社新書)』においては*2、本田氏のみが「ひきこもり」に突っ込んだ言及をしているために、内藤朝雄氏・後藤和智氏よりも多く批判される形となっている。 ▼本田氏としては、「なぜ自分だけが」と理不尽に思われるかもしれないが、私はむしろ、その勇気ある言及によって「議論を整理することが可能になった」と感謝し、少し詳しく触れてみる。【そもそもこの本がなければ、「ひきこもり」についての忘却もさらに進んだだろう。その意味でも単語「ニート」は、遠回りかつ皮肉な形とは言え、「ひきこもり」救済にも一役買っている。】



*1:2月9日のあと、12日付の本田blogに再度TBを送ってしまったのは、単に私の操作ミスです(修正時、「ちょっとした更新」のチェック忘れ)。 失礼しました>本田さん

*2:本の全体については、あらためてエントリーするつもり。

『「ニート」って言うな! (光文社新書)』本田パート(p.50)より。(強調は引用者)

 若い人たち自身に聞いてみても、「フリーター」に関しては共感を持っていても、「ニート」に対しては「ペット以下だ」というような言い方――これはある女子高生の言葉です*1――で、きわめて軽蔑し嫌悪するような感覚をもっている場合が珍しくないようです。その「ペット以下」という表現は、意欲がなくて、暗くて、澱んでいて、何もできなくて……というような「ニート」のイメージが蔓延しているからこそ出てくるものです。
 「ニート」という言葉が口にされる際に、失業者や「フリーター」にきわめて近い「非求職型」や、あるいは状況的に働く必要や予定がなくて働いていない層の存在は、「ひきこもり」のイメージの強さゆえに、すっかり吹き飛んでしまっているのです。ごく一部のコアの部分のネガティブなイメージだけが、「ニート」と定義される若者全体に当てはめられる形で、人々の社会意識の中で定着してしまっているのです。

ニート」のネガティブな濫用を批判するために、いつの間にか「ひきこもり」のネガティブなイメージが追認されてしまっている*2。 紙幅や戦略上仕方ないのかもしれないが、本当に批判すべきなのは、「非社会」というあり方への差別的印象操作そのものであるはずだ。(「ニート」への誤解が解けたとして、その女子高生は「ひきこもり」をどう評価するのだろう。)



*1:これを思い出さずにいられない。

*2:→「ひきこもりのイメージがネガティヴであるのは当然だといわんばかりの姿勢」(bewaad氏

「ひきこもり」=「富裕層」?

本田氏は、昨年11月22日(『「ニート」って言うな! (光文社新書)』脱稿と同時期*1)、関西大学での講演会において、ひきこもりは「富裕層においてのみ可能」という趣旨の発言をしている。▼「働かない子供を扶養できているではないか」ということだろうが、富裕ではない事例は多数存在するし、すでに貧困ゆえの殺人(心中未遂)や、餓死事件も起こっている。ひきこもりは、「貧困だったら家を出られる」という素朴な話ではない。▼長期化・高齢化する「ひきこもり」業界においては、むしろ経済的逼迫こそが差し迫った課題であり、最大の不安要素となっている。

    • この件は講演直後にご本人に指摘し、以後はそのようなことはおっしゃっていないと思うし、『「ニート」って言うな! (光文社新書)』には、「ひきこもりはお金持ちだけ」云々は登場しない。▼本に登場しない発言を取り上げたこの件は、やや過剰な揚げ足取りに見えるかもしれない。しかし、「ひきこもりはお金持ち」というのは、あまりにも繰り返し登場するステレオタイプな憶測であり、「ひきこもり」が政治的に忘却される大きな理由となっている。影響力ある方の典型的かつ重大な誤解として、あえてここで取り上げさせていただいた。【本田氏は、その意味でもメディア機能を持っている。】




「正確な実態把握の上での対策」

私は、「ニート」が話題になるずいぶん前(2000年)、あまりの「心理主義・医療主義」の横行へのカウンターとして、「引きこもりは結局は労働問題だ」と書いたのだが、「就労」ばかりが語られる現在から見れば、逆に「ひきこもりは、就労問題の枠組みから大きく逸脱する」と言わねばならない。▼私が不登校・ひきこもりを経験したのは、消費文化・バブル経済絶頂期を含む80〜90年代にあたる。 「景気浮揚・職業訓練」という枠組みだけでは、「ひきこもり」は確実に忘却される。
本田由紀氏ご自身は、「ひきこもり」については「異なる対応が必要」と書いてくださっている。

 「ひきこもり」は、複雑に絡み合った生育歴上の困難を抱えているような人たちであるといえます。(『「ニート」って言うな! (光文社新書)』p.40)

教育社会学・若年就労をご専門とされる本田氏の「ひきこもり」理解が不十分であるのは当然とも言え、こちらのエントリーを見ても*1、あるいはお会いしたときの印象から言っても、本田氏が「ひきこもり」を意識的に差別・黙殺しているとはまったく思わない*2
ニートと呼ばれている状態像はきわめて多様である」とし、その正確な実態把握の上での対策を主張されているのが本田氏であるとしたら(私はそれをぜひ支持したい)、「ひきこもり」についても――ぜひ同様の方針を、心からお願いしたい・・・。



*1:「ひきこもり」を「トラウマ」に結びつける服部雄一氏の主張自体については、魅力を感じつつ、私は多くの留保をしたい。ちなみに斎藤環氏は、「いじめ」被害者の引きこもりのみを「PTSD」として別枠で扱っている。▼ひきこもりの「家族原因論」は、不毛な「犯人探し」に陥りやすく、ただでさえ落ち込みがちな親御さんの罪悪感を強く刺激するため、私自身はタブーに近い、少なくとも「取り扱い注意」の問題設定と考えている。もちろん、「親のせいだ」と決め付ける「世間の目」も計算に入れる必要がある。▼しかし実際には、ひきこもり支援の多くは「親御さんの説得」であり――二枚舌、三枚舌を使い分けた言説戦略が必要だ。

*2:疑問(というか不明な点)があるとすれば、本田氏における「就労・社会参加」の規範上の位置付けだろうか。▼「稼ぐためには働く必要がある」ということと、「規範として働くべきかどうか」ということとは、徹底して峻別して考える必要がある。