一読者としての感想

貴戸理恵氏の『不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』には、不登校当事者としては当たり前のことしか書かれていない。
だから価値がない、楽な仕事だ、というのでは断じてない。 その「当たり前のこと」をきちんと言語化する作業は、実はかなり危険で(内面的にも社会的にも)、重要な作業だと思うし*1、多くの当事者にとっては新規情報はなくとも、それが正規の手続きをとって「修士論文」や「公刊図書」として流通する運びになっている、そのこと自体に政治的な意味があるのだと思う。
なのに、東京シューレからは262箇所の修正要求
社会学者たちからは「調査倫理」が問題にされているようだが、仮に実際に貴戸氏の手続きに、調査倫理上の“問題”があったとして*2、しかしでは貴戸氏が「“正当な”調査・公刊手続き」を取っていたとしたら、今回の本は公刊可能だったのだろうか。 現実的に言って、お蔵入りだったのではないか*3


今回の件で、実は「社会学者のフィールドワーク」なるものに、興味を失いつつある。
今回、貴戸氏が東京シューレの訂正要求をすべて受け入れて本を公刊したとしたら、それは「シューレの広告本」以外の何なのだろう。
そのような本に興味を持ち得るとしたら、「『社会学フィールドワーク』そのものをフィールドワークする」という形においてだ。
あるいは今回の貴戸本に関して言えば、単純に貴戸氏本人への判断だけでなく、「この本がなぜ一部の当事者・親たちから支持されているのか」、あるいは「なぜ一部の当事者は、嫉妬に満ちた品性下劣な罵倒を貴戸氏に投げつけるのか」、そもそも「なぜ当事者同士の見解が対立するのか」といった事実そのものを、社会的事実としてフィールドワークするべきではないのか。


貴戸氏の本が、本当に「東京シューレを中傷している」のなら、こんな感想にはならない。
「シューレをはじめとしたフリースクールの業績をしっかりと評価しつつ、当事者的な視点と問題意識を口にした」だけに思えるこの本が、非常に影響力のある支援団体から潰されようとしている、その事実に異様なものを感じている。


私も繰り返し経験しているが、当事者が、支援者の「支援の前提」に抵触するようなことを口にすると、異様なまでに徹底的に叩かれる(ことがある)。 黙って「可哀想な当事者」をやっている間は友好的・支援的に振る舞ってくれても、違和感を表明した途端、あるいは支援方法論に意見をした途端、その「違和感を表明した」「意見した」という事実そのものを、「この世でいちばん許し難いこと」のように恫喝的に糾弾される(ことがある)。
支援者の解釈手続きに乗っかる形でしか支援されない(ことがある)のだ。*4


私自身、当事者や業界関係者と本当に重要な話をする時には、やはりオフレコになる。 利害を共有しない聞き手に対しては、何も言えないか、表層的な情報しか教えられない。
となると、本当にエグイ情報については、自分も業界の住人になって、実際の利害関係に巻き込まれてしまうか、あるいは2ちゃんねる*5を見るぐらいしかないのではないか。 そしてそこで「真実の情報」を掴んだとして、それをトラブルなしに論文や本にできるのだろうか。
「共に戦ってくれる調査者」以外を相手に、何を語れるというのだろうか。



*1:私が「ひきこもり」についてやっているのも、部分的にはそういう作業のつもりだ。

*2:私は事実については何も知らない。 ここではあくまで仮定の話をしているのみ。

*3:貴戸氏が「意図的にトラブルを起こした」などという詮索では全くないので念のため。 私は、貴戸本を巡るいきさつについては何も知らない一般読者であり、ここで述べているのは、「不登校以後ひきこもりに至った経験者」としての一感想にすぎない。

*4:逆に言えばこれは、私が「信頼できる支援者」を識別する基準でもある。 ▼当事者との間で、本当に課題共有できる人かどうか。 (共有できないなら、一緒にいるべきではない。 それはもちろん、相性の問題でもある。)

*5:「嘘を嘘と見抜ける人でないと」・・・

なぜ

あまり知られていないことかもしれないが、「不登校」の業界と「ひきこもり」の業界は、はっきりと別のものだ。
問題としては、確実に連続性があるのに。*1
「年齢」以外にも、理由があるのではないか。



*1:ちなみに管轄官庁としては、18歳までは文部科学省、それ以後は厚生労働省になる。 しかし業界が違ってしまっている理由は、これとは別の問題だろう。

仕切り直し

フリースクールにいる不登校当事者」は、フリースクールという場において社会参加しているため、そこにすら出て行けない「ひきこもり当事者」とは、全く事情が違う*1。 逆に言えばフリースクールは、不登校者が引きこもり状態*2に落ち込まないために、一定の役割を果たしている。
本当の問題は、「フリースクールを認めるか否か」ではなく、また「当事者の違和感を認めるか否か」だけでもなく、≪将来継続的に、経済的な社会参加ができるのか否か≫*3ということ。
→ 「当事者の違和感」も、「継続的社会参加において重要なファクターである」という意味において、尊重すべきである、ということではないか。


フリースクールは、不登校当事者の社会参加に一定のチャンスを提供しているが、そのことが一部当事者の違和感をあらためて排除している可能性がある(それを貴戸氏は言語化した)。 そこで考えるべきは、当事者の違和感を潰すことでも、逆に当事者の違和感を絶対視して終わることでもなく、「当事者の違和感を尊重しつつ、獲得できる社会参加はあり得るのか、その道筋は」という模索ではないか。
貴戸氏が報告しているとおり、その違和感を抱く人は当事者の全てではないのだから、それは「違和感を感じている当事者」限定のニーズなのだが。



*1:貴戸氏は、「調査の現場に立ち現れない」という言い方で、こうした問題に何度が触れている(p.261など)。

*2:社会参加も対人関係もなし

*3:貴戸氏のいう「長期的な社会的自立」(p.280)

「エリート」

今回のネット上の論争では、「貴戸は学歴エリートだ」という話が繰り返し出てくる。 あろうことか貴戸氏自身が、(「痛いところを突かれた」という意味で)「心臓ひとつき」*1などと言っている。
これについては、「属性と課題の峻別」ということで、当ブログではもう繰り返し論じてきた。
「学校に行っているか否か」は、属性レベルの話。 → 「当事者益のある事業(課題)について貢献できる」なら、属性は何でもいい。 そこで問われるべきは「貢献できるか否か」であって、「当事者としてより深刻か否か」云々ではない。 「エリートであること」が悪い意味で問題になる局面があるとすれば、「それゆえに有効な課題を析出できない」ケースのみ。 課題に取り組むに当たっては、むしろエリートであってほしいに決まっている。 【「エリートであること」は、属性との関係ではなく、課題との関係において重要なのだ。 このことは何度強調されてもいい。】


またしても、「逆向きの権威化*2だ。 「あいつは俺よりもポジションがいいから、あいつはダメだ」。
嫉妬とルサンチマンの塊。
この状況で「でも自分はエリートだし・・・」などと悩むのは、単に有害でしかない。
属性レベルでの不幸自慢競争を、一体いつまでやったら気が済むのか。



*1:p.235

*2:「逆ベクトルの権威化」としていたのですが、なんか意味が変なので、「逆向きの権威化」に変えました。