作業現場の焦点

16日のイベントにお邪魔する*1前に、現時点で気になっていることをいくつか箇条書きメモ。
斎藤環氏への疑義も提示されていますが、記憶が曖昧な点もありますし、あくまで暫定的なメモです。】



*1:800人の定員が10日以上前に満杯になったとのことなので、東京イベントへのお申し込みはお早めに・・・。

「当時の意識」と「現時点での言語化」

3月6日のイベント時、私は中学時代の不登校について、「学校に行けなかったら死ぬと思って心身症が出ても必死に抵抗してギリギリまで行き続けた」というニュアンスのことを言った(大意)。
貴戸本のこともあり、1984年6月(15歳時)の自分の日記を読み直したが、当時の自分の意識はこんな明白な言語化をしていない*1。 もっと幼稚で魯鈍。 「抵抗できない規範意識に苦しめられていて、『レールを外れたらどうなるのだろう』という恐怖に怯えていた」・・・・など、もう少し精確な言語化ができたはず。 「死ぬと思って」云々というのは、不登校当時そのものに即した描写というよりも、現在の私の意識がそう考えないと持たないからそう言語化した、という意味合いがどうやら強い。
これはさらに後年の、「ひきこもり現役時」の心理を現在の私が言語化する際にも起こるもんだいだと思う。

  • 規範レベルにおいて、現在の私の意識がまだ不登校や引きこもりを承認しきれていない、いや他者との価値観駆け引きの中で、言い訳的な意識動向に堕してしまっている。 負けている。
  • 「現役当事者の心情を代弁する」という社会的役割から、「当事者としての社会活動(事業)」へ、主観的にも社会的にもシフトしてゆくべきかもしれない。 「ひきこもり」そのものを抽象的に考察する中から、具体的なアイデアへ向かうこと*2。 「このようにつらい!」という話は、それ自体としては嗜虐的な言語行為にしかならない。
  • 「学校に行けない」「人と付き合えない」「働けない」というその impossibility(不能性)の内実については、たぶんいちばん語りにくいところだと思う。 それを語ろうと試みることは私にとって自傷行為に近いが、しかし為すべきなのか。
  • 不登校・ひきこもりを「選んだ」のであれば、すぐさま自己責任論が回帰する。




*1:気がついてかなり冷汗をかいた

*2:「支援対象」から「活動主体」への比重の移行。

≪治療≫

斎藤環氏は、「ひきこもりは『治療』の対象で、ニートは『支援』の対象である」という言い方をしている。 『「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論 (中公新書ラクレ)』p.244 と先日の発言を参照するに、どうやら斎藤氏は「支援には価値観提示が入るが、治療にはそれがない」と考えているらしい。
しかし実は斎藤氏は、≪治療≫という単語の使用において最も価値観的に糾弾を受けている常野雄次郎id:toled)氏からは「ブルジョア精神科医」と呼ばれていて(この呼称を素で使うことはさすがにどうかと思うが)、これはつまり「搾取を前提とした資本主義社会の労働現場に不登校・ひきこもり当事者を復帰させることだけを考える体制順応者・御用精神医学者」とでもいう意味だろう。
「社会に復帰すべきだ」というその考え方自体が価値選択だといえる。 (私が安楽死の話をするのはまさにそのこと。 「生き延びない」という選択肢もある。)
貴戸理恵氏が「明るい不登校イデオロギーを批判するのは、「明るくなれず暗いままに終わる不登校」を示唆しているが、私は斎藤環氏の「治療」概念も同じ懸念文脈にあると考える。 しかし斎藤氏には、「生き延びるべき」がイコール価値選択であるという自覚がないのではないか。 貴戸氏と斎藤氏に共通している価値選択は、当事者にとっての「苦痛軽減」「破綻回避」であり、「放置すればまずい」という判断をしている点において、私はお2人は危機意識を共有しているものと考える*1
斎藤氏自身は、規範レベルでは「働かなくて良い」「ひきこもっていて良い」という立場をかなり過激にとっているかただと思う。 「放置すれば個人として経済的に破綻する、だから介入的に振る舞ってでも社会参加の道を模索してもらうべきだ」という、その価値判断の部分が「医師」としては当たり前すぎるので、だからそれは本人にとっては無自覚的であり、「価値観提示ではない」とされ、それゆえに≪治療≫という単語の提示に集中するアレルギー反応にあまり拘泥しなくなっているのではないか。 そこに決定的なすれ違いがあるように感じる。
「治療選択自体が価値観的選択だ」 「治療への誘導は価値観提示だ」というところで、斎藤環氏にもう少し言説生産していただきたいと思うのだが、いかがだろうか。



*1:【追記: この指摘はいささか勇み足だった。 お2人の今後の発言に注目しつつ、時間をかけてゆっくり考えてみたい。

情熱

斎藤環氏は「ロボットになる」(共感や同情の方法論的排除)をご自分の臨床指針にしておられると思う。 そして「仲間ができれば自然に就労に向かう」。 そこでは、雇用環境の現状や、「仲間内の承認関係以上に実存を動機づけるもの(熱情)」のあり方については(臨床上は)問われない。 それは当事者各人に任されるのだが、これはむしろ「精神科医」としてのストイシズムと言える。
しかし、実は「この世で生き延びようとする」という価値選択自体が、雇用環境や実存の熱情と根深く相関するのではないか。 斎藤氏は「生き延びる」という選択肢を自明にするので(医師としては当然といえる)、その延命選択と濃厚な関係にあるはずの「雇用環境の厳しさ」や「熱情の困難さ」が問いにくいのではないか。 → そこの部分は、斎藤氏は「惰性」という言葉で乗り切っているように思われる。 (氏の「生きる動機づけ」は「惰性と忙しさ」だという。)
宮台真司氏は「政策と実存」というから、環境と内面が結婚することの困難を問題にしているように見える。
生き延びる努力はする、しかし単に迎合的な順応主義ではない、そこにおける情熱――そういうところで考える必要があるわけだが、それが斎藤環氏の指針には欠けているように見えていて、そこに批判が集中しているように思われる。



努力焦点

このへんに尽きないか。



*1:この項目はエントリー翌日に追加しました

「雇用事業」

メチャクチャ。
以前にも触れたが、「雇用・能力開発機構」というのは一体どうなってるのか。
行政系雇用事業のトチ狂いぶりというのは、何かものすごく症候的ではないか。 事情はよく分からないが、問題体質が集約的に表現されている気がするのだが、気のせいですか。