微熱と下痢が続いていて、まとまった思考や作業が何もできませんよ。 なんだかなぁ・・・。
「無意識的なものにアクセスする虚構」のプロデュースって、「夢」のプロデュース?
今日放映されたNHK「クローズアップ現代」によると、「就職しない若者が増えている」のだという。理由を聞いたアンケートでは、「働かなくても生きていける」「働く意味がわからない」など。
「自分は何をやりたいか」については、「自己分析」を続けていても駄目で、実際に仕事をやってみてその手応えの中から見つけていくものだ、という指摘はナルホド。番組ではインターンシップの試みが紹介されていたが、「自分の出したアイデアが2700万円の売り上げにつながった」 → 「その実績から、新しい商品開発に協力して欲しいといわれた」 → 「自分にはこんなこともできるんだ、と気付くのは楽しい」・・・・など、実際に職場の中に存在している課題との関係における成功体験が、参加意欲をもたらすのでは。
そう、実は番組を観ながら考えていたのは、≪課題≫というものの存在。
- 社会には、あるいは会社には、解決することを求められている「課題」が存在している。
- スポーツなら、「試合に勝つ」という課題。いい選手の登場は経済界からも待望されている。そんなふうにして、どんな業界でも、「課題を解決できる人」が求められている。
- 「仕事をしてお金をもらう」のは、「誰か自分以外の人の課題を解決した」ことへの報酬。
- 「就職しなければならない」というのは、「自分のために」解決してあげる課題。
- 「誰の課題も解決せずに金銭を得ようとする」のが犯罪行為か(宝くじもあるけどね)。
内的な課題と、外的な課題。 継続していけること。 「お金がない」。
最近の若い人は「想像界と現実界だけで、象徴界が抜け落ちている」と東浩紀さんが言っていたが、「働く意味」とか「課題」とかいうのは象徴界のハナシ。「若い人から欲望が失われている」という斎藤環さんの指摘も同じ議論か(欲望というのは象徴界の話だったはず)。
- オタクの人は「キャラ萌え」とか言うのだが、僕はむしろ「キャラ萎え」体質かもしれない。
- 「キャラクター」という要因を感じた瞬間に萎える。
- 「存在に晒される因幡の白兎」というのが今の僕の自己イメージだ。
- 自分がそこに没頭できる「ハマれるフィクション」を求めてやまないのだが、今のところ≪夢≫がそれに最も近い。
- 今日の番組では「若い人が夢を語れない」とあったが、要するに自分でフィクションをプロデュースする力がない、という話か。
望まざる・・・
雑誌『諸君!』6月号*1に、斎藤環氏と長山靖生氏(歯科医・評論家)の対談≪「フリーター」(400万人)と「ひきこもり」(100万人)への処方箋≫*2が掲載されている。立ち読みしてきた。以下、記憶による議論の大意と、それへの僕のコメント。
- 「漫然とフリーターを続けていれば悲惨なことになる、というナマの実情をレポートして見せつけるべきではないか」
- 若いうちはともかく、20代半ば以降は「やむにやまれずフリーター」の人が多いのではないか。実際、ひきこもり当事者にも、フリーターにも、「夢は正社員雇用」という人がすごく多い。
- 企業自体が「クビにしにくい正社員雇用」を嫌っている面がないか。
- 「若い間はよくても、年齢とともに仕事はなくなるし、技術やキャリアの蓄積もないからジリ貧。もちろん体力も落ちてゆく。15年ほど前、若者たちは『フリーターはカッコイイ』と勘違いしていた」
- そのままの認識を当事者たち自身が持っていて、だからみんな焦っている(そういう認識を10代の早い段階から持つのは大事だと思う)。
- 当事者を責めるばかりではなくて、社会的な選択肢を具体的に増やす必要があると思う。
- 「若者が全般に≪欲望≫を持たなくなっているのだが、仕事への意欲を持たせたいなら、異性への欲も認めてあげるべきだ」
- 引きこもっていて欲望が失われていても、あつあつの「恋愛・セックス話」を聞いてショックを受ける人が多い。自覚していなくても、性愛的欲望は根強く残っているのではないか。 → そこに欲望刺激のヒントはないか。
- って当ブログでは前から言ってるんですがなかなかね・・・。「男性当事者は女性を熱く求めている」とか言うと女性が引くのは当たり前であって(笑)。どうしたもんか。
★斎藤環氏が挙げていた「去年の餓死事件」についてのスレッド:
・「32歳無職女性が餓死か 東京・昭島市、友人も衰弱」。 さらにその次スレ。
理念的メッセージには経済的保証が必要なのでは。
宮台真司氏の発言をいくつか眺めているのだが、ヒキコモリに関連するテーマが非常に多い。「性愛」「リテラシー」「動機づけ」「脱社会的存在」「強度」云々。
氏は最近「天皇」を焦点にしているようだが、たとえば「脱社会的な存在」も、「天皇陛下万歳!」というマジックワードを口にすれば、「社会内部化」してもらえるのだろうか。
- 単純な話、「天皇陛下万歳を叫べば仕事をやる」(叫ばなければ仕事を奪われる)となれば、叫んでしまう人は大勢いるのではないか。
- 経済的自立のためには精神的自立は必ずしも必要ではないが、精神的自立のためには経済的自立がどうしても必要だと思う*1。経済的に自立できない人間が精神的自立だけを求めようとすると、やっぱり死ぬしかなくなってしまう。
- 「狂信的な帰属を誓うことによって食わせてもらおう」というのは、追い詰められた人間にとってはあり得る選択肢ではないか・・・・。
- 「あえて」だろうが「ベタに」だろうが、政治的には見分けがつかないと思う。
恐ろしいことだが、最近、保守とリベラルでは、「保守」の言説の方に元気な強度が宿っているように思えてならない(宮台氏の選択にはそれ以上の意味があるんだろうか)。それとも、そう感じるのは僕自身の気持ちの変化でしかないだろうか。
経済的な逼迫と理不尽感が、「とにかく他者には非寛容になれ」という無条件の機運を生んでいませんか・・・。 → 「寛大になれ」というメッセージは、「お前のことを経済的に保護してやる」というメッセージとセットでなければ無力なのではないか。
いずれにしても、「議論」が必要だ。なのに、議論のできない「言論弱者」というのが引きこもっている人の基本的性質であって。発言したと思ったらあまりにもトチ狂ったことを言っていたり。絶望的・・・。
個人の empowerment*2 のためには、やはり≪言語訓練≫がどうしても必要だ。それは知識人にとっての「言説の無力さ」という課題とは別に、個人レベルの有力化のためにどうしても必要な訓練だ。
当ブログでは何度かこの話題を取り上げてみたが*3、なかなか具体化できずにいる。うーん。