(1) 《つながりの作法》 としての差別
連続エントリ:
- 第1回 「《つながりの作法》 としての差別」(今回)
- 第2回 「《不定詞の束としての人格》という考え方」
- 第3回 「生の様式そのものとしての不定詞 infinitif」
- 第4回 「差別と批判の見分け方」
- 第5回 「【追記】 民族浄化ならぬ、当事者浄化」
『週刊朝日』「ハシシタ」記事と橋下徹氏の件(参照)について、いくつかの議論を精読しました。*1
今回の騒動ではっきりしたのは、
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- 何が差別で何が差別ではないか、理論的に説明できる人は一人もいない。
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- 「批判」と「差別」の違いをどう考えるかに、その人の思想の原理がくっきりと現れる。
橋下徹氏は、私が生きざるを得なかった引きこもり状態について、「勾留のうえ、労役を科す」「生きる資格がない」 と言っていて(参照)、いわば私の人権を(というか命を)認めない人です。 しかし 《彼をどう批判するか》 のロジックには、慎重でありたい。
私はパブリックに活動を始めて12年くらいになりますが、この間に受けた最悪の差別発言は、差別問題の専門家によるものでした(参照)。 この人物は、日ごろから同様の発言を繰り返しているようで、しかし反差別の業界内では、しっかりと地位を築いています。
つまりマイノリティ支援系のコミュニティでは、差別主義者でも生きていける――というより、一定の差別主義に同意しなければ、そうしたコミュニティには居られないのです。これは、個人的な失言というより、集団的な知的方針全体の、《発想法》それ自体のスキャンダルと言えるはずです。
今回、人権論で急先鋒のはずの朝日グループが「やらかした」ことで、専門家じしんが差別をやめられていない―― それどころか、差別が集団のつながりの作法にすらなっている実態について、公的に論じる土壌ができたように思います。
(以下、強調は引用者)
■ご自身が被差別部落出身である事をカミングアウトし、差別問題に取り組む上原善広氏:
佐野氏の連載は、えげつないことは確かですが、いまもっとも話題の政治家・橋下氏の記事としては許される範囲でしょう。心配される路地(同和)への偏見については、しっかりフォローすることも大事ですので、今後の佐野氏の書き方次第だと思います。しかし、こうして一般地区出身の作家が、路地について書くことは、とても重要な意味をもつ画期的なことです。 〔・・・・〕
差別的にしろ、なんにしろ、ぼくは路地について書かれるのは全て良いことだと思っています。それがもし差別を助長させたとしても、やはり糾弾などで萎縮し、無意識化にもぐった差別意識をあぶりだすことにもなるからです。膿み出しみたいなものですね。それで表面に出たものを、批判していけば良いのです。大事なのは、影で噂されることではなく、表立って議論されることにあります。
■作家であり、以前は出版社に勤務していた橘玲氏:
糾弾という「儀式」の特徴は、出版社(と書き手)が無意識のうちに差別表現を使用して、それを指摘されて謝罪することだ。これはフロイト的な理屈でもあって、「無意識の差別意識を糾弾によって意識化することで、社会の矛盾や自らの差別意識とはじめて向き合うことができる」とされていた。
気になること
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- 差別問題は、精神分析系の概念操作をめぐっている。 生育歴がどうとか、「無意識のうちに」とか。
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- 発言者が 《差別される側》 かどうかが、重要な参考情報になる。
問題となった佐野眞一氏の連載は、「問題のある個人について、その過去に原因を探る」というスタンスですが、これはフロイト的な精神分析のアプローチと、どう違うのでしょう。 「それは俗流精神分析だ」で終わらせるのではなく、違いをしっかり言説化しておく意義はあると思います。
というのも、「あいつはああいう家柄で、ああいう過去があるから、ああいう人格なんだよな」という、アマチュア分析ごっこみたいなものは、そこらじゅうに溢れているし、そういう大衆的分析欲に迎合するからこそ、佐野氏をふくむ多くの原稿は、マーケット的に支持されるのではありませんか。
私じしんが、そういう文脈と切っても切れないところに居ます。精神分析の専門家でなくとも、「親がおかしかったからこうなったんだ」とか、「血筋はどうなんだ」とか、その類いの詮索を受け続けるわけです。
今回の問題は、入り口としては差別問題かもしれませんが、私たちがお互いの存在をどう理解し、関係をさばいてゆくのか、その総合的な方針を問い直されているのだと思います。 それは直接に、支援・臨床の実務と、重なるのではないでしょうか。(とりわけ支援関係者の皆さんに、呼びかけたいです)
私たちは、そんなに軽率に、誰かを「診断する」みたいな発想をしてもよいものでしょうか。
あるいは、「それは差別だぞ」という非難は、原理的には何を言っているのでしょう。
―― そうした問題をめぐる私の立場については、項を改めます。
*1:たとえば考える材料として: ▼上原善広(うえはら・よしひろ)氏:「橋下氏についての週刊朝日連載」、 「週刊朝日の謝罪」、 「週刊朝日・連載打ち切り」 ▼橘玲(たちばな・あきら)氏:「週刊朝日は謝罪すべきではなかったし、連載を続けるべきだった」、 「『週刊朝日』はいったい何を謝罪したのか?」、 「同和地区を掲載することは「絶対に」許されないのか?」 ▼河畠大四(かわばた・だいし)氏:「おわびします」(当該誌刊行時の『週刊朝日』編集長) ▼報道例:「橋下市長:週刊朝日は「謝り方も知らない鬼畜集団」」(毎日新聞)
■朝日新聞出版: 「週刊朝日の橋下徹・大阪市長連載記事に関する「朝日新聞社報道と人権委員会」の見解等について」【その1】 【その2】 ■佐野眞一氏のコメント: 「見解とお詫び」