schizo-analyse は、《提案》 だったはず

現代思想2011年2月号 うつ病新論 双極II型のメタサイコロジー

現代思想2011年2月号 うつ病新論 双極II型のメタサイコロジー



pp.32-66、 内海健大澤真幸 うつ病と現在性 〜「第三者の審級」なき主体化の行方》 を精読した*1
あまり期待せずに読み始めたのだけど、一気に通読。(以下、本エントリ内の強調は、いずれも引用者)


内海健氏の発言(pp.61-62)より:

 冒頭で、大澤さんはかつてドゥルーズ=ガタリや浅田さんが言っていたスキゾが解離性障害として形を変えてやってきたと言われました。
 スキゾにとっての最大の危機というのは、青年期に「第三者の審級」の例外的な接近に晒されることです。これに対してリゾーム的な逃走線を引く戦略をドゥルーズたちはスキゾ的と称揚するのでしょうが、それはそんなに気楽なものではありえません。
 「第三者の審級」は、スキゾに対して、「一者であれ」と命じます。この命法は途轍もなく強力なものだったと思います。ある意味で統合失調症というのは、この「一者であれ」という令法に殉じた人たちと言ってもよいでしょう。

関連し、『多重人格性障害―その診断と治療』p.446、中井久夫氏による記述:

 〔翻訳を〕やり終えて、改めて、私の生涯の課題であった分裂病患者を思うと、彼らが、自己の解体を賭けてまで、自己の単一統合性を守り抜こうとする悲壮さが身にしみて感じられる。 かつてサリヴァンは、分裂病も一つの力動態勢(普通にいえば防衛機制)であるとすれば、何に対する防衛であろうかと自問して、答えを得なかったが、分裂病患者には催眠術がかからないという顕著な事実を思い合わせて、私はマインドコントロールに対する防衛機制ではないかという答えをサリヴァンに返したくなる。



浅田彰氏をふくめ、ドゥルーズ/グァタリを論じる人たちは、

    • いつの間にかはまり込んでしまう「不自由な状態」(Schizophrenie、解離性障碍、発達障碍、etc.) と、
    • 欲望的生産の解放であり、自由を生きることそのものとして提案された schizo-analyse を、

混同している。


たとえばグァタリは『機械状無意識―スキゾ分析 (叢書・ウニベルシタス)』で、schizo-analyse を「生成」と「変形」の二つに分ける(p.203〜)。 あるいは『千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)』(p.299) で schizo-analyse は 「プラグマティック(語用論)」 と言い換えられ、それが「4つの円環的な構成要素」で表される参照――こうした内実を論じられる人は、どれほどいるだろう。


schizo-analyse は、技法上の積極的な提案としては、ほとんど検証されていない。*2
「時代はスキゾになると思っていたが発達障碍だった」云々の議論も(参照)、まるでドゥルーズとグァタリが、受け身に「どうなってゆくか」だけを論じていたかのように話している。 しかし DG は、精神分析(psych-analyse) や 制度論的分析(analyse institutionnelle) に対して、schizo-analyse を 《提案》 していたはずだ。*3


現状では、「schizo-analyse は何をする事業なのか?」すら、分からないままだ。*4


ここで為すべき議論は、

  • 「スキゾか、解離か、発達障碍か」と、《時代への鑑別診断》 の正しさを競うことではなくて(それでは論じる自分はメタに温存されたままだ)、
  • ドゥルーズやグァタリの提案が 《分析スタイル》 の側にあったことに気づいた上で、その内実を検証することだ。



80年代ふうに「好き放題に走り回る」とか、誇大妄想めいて発言するポーズでしかないなら、
「スキゾに憧れてる」だけの、痛々しい中二病にすぎない(いわば「スキゾ厨」)。
それではたしかに、参照価値はまったくないだろう。



*1:schizoophrenie さんのツイート(参照)に触発されました。

*2:Gary Genosko、Janell Watson、さらに 『The Guattari Effect』、『ドゥルーズ/ガタリの現在』、『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』、『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』 のほかに詳細な論究をご存知でしたら、邦語・外国語を問わず、ぜひご教示ください。

*3:「私たちは、精神分析と対立する schizo-analyse を提案する (Nous proposons une schizo-analyse qui s'oppose à la psychanalyse)」(『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』p.47, 原書p.33 の、ドゥルーズの発言より拙訳)

*4:たとえば、そこで提案された技法の十全な展開のひとつが、『千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)』だっただろう。技法のありようを知らないままに、自分の知っている知的作業だけを前提に彼らの結論部分だけを見ても、「何をしているか分からない」。 あるいはここで、ドゥルーズの単著は、schizo-analyse と呼べるか?」 という問いがあり得る。