笑いと権力について

contractio 氏、正しいこと言いたいなら 笑いか権力、どっちか取らなあかんで(togetter)

お忙しいところ、お返事ありがとうございます。 本エントリに頂いたお返事も、togetter に追加しました。】
私は 《権力》 という言葉を、「領土的な反復や強制力」というぐらいの意味で使っていました。


集団のなかで自分だけが笑えない場合、その場に反復される《笑いのスタイル》に、どうしても入っていけない。 これはマイノリティだけでなくて、例えば 「とんねるずダウンタウン」 のように、それぞれがお笑い強者のはずなのに、同席すると笑えない、ということがあります。
つまり、ある解釈のフレームがその場を支配する必要があって、それが軋み(きしみ)を起こすと、笑えない。私はそこに、権力の話との重なりを読みとったのでした。


周囲が笑っているのに、自分が笑えない場合、それが

 お笑いのスタイルが固着している (ろくでもないパターンを反復しやがって)

という意識になることに、注目しています。*1


笑えないときは、「そんな形では笑うべきではない」と、批判的な意識になることがあります。たんに退屈でもなくて、価値判断をともなった、積極的な反論が生じるのです。*2

笑えないフレームが反復される場合、何がそれを支えているのか。そこに誰かにとってのポジティブなものがあるなら、やはり 《権力》 の語を使いたくなります。 多くの場合、そのフレームでおいしい思いをしている人間に、怒りが向かいます。支配的な笑いのフレームが、新しく必要な分節を抑圧するからです。この場合は、笑いよりも 《ていねいな分節》 のほうが、固着したフレームを組み直すことができます。*3

御意です。
私が気になるのは、概念だけでなく、文章表現や発話の、運用スタイル全体が問題ではないか、ということです。 「概念分節」だけを切り取れるのかどうか。ある概念の運用は、すでに一定の議論の方針を、前提にしていないか。*4
どうも私は 《権力》 という言葉に、自分の必要に合わせた勝手なふくらみを与えてしまっているようなので、それを説明する作業が(たとえば論文などの形で)必要なんだと思います。
――「主だった文献をぜんぶ読むまで、何にも言ってはいけないのかもしれない」と思い始めて、げんなりしているのですが・・・。 作業そのものの大変さのほかに、そこまでやって、支援実務に貢献できるのかどうか。

    • 東大からTV局に入り、お笑い番組担当になった新人ディレクターが、ベルクソンの『笑い (岩波文庫 青 645-3)』を勉強してきて、でもそんなだからお笑いのセンスは全然ない、どうしようもない――というエピソードを、ビートたけし氏が紹介していました。 笑いについて研究することと、「実際に笑わせる」ことは、似ても似つかない。同様に、権力を研究することは、必ずしもうまい権力に結びつかない。社会参加「について」研究することと、実際に参加を持続させることは、矛盾する場合すらあると感じています。
    • ここではしかし、《権力をどう生きるか》 という実務的な問いを共有できたことを喜びたいです。あとは、具体的に技法が(そして必要な労力のあり方が)問われています。


(関連して、思いつきの与太話ですが、)

むかし『You』というNHK教育のTV番組で、糸井重里氏と坂本龍一氏が「音楽のおもしろさ」について話していて*5、《音楽では笑えない》という論点を出したことがあって、なぜか鮮烈に覚えています。
糸井氏に「音楽では笑えない」と言われて、坂本氏が即興で滑稽な(?)曲を演奏したのですが、「笑えないよw」と。
「いい音楽」はあっても、「笑える音楽」はない。



【2012年6月22日の追記】

  • 《笑わせる》ことに伴う賭けの要素は、《個人の社会化》に廃絶できない賭けの要素に、とても似ている。
  • 笑いの方向をある程度共有できることは、「価値観を共有している」という安心感にとって、とても重要。
  • ひきこもり経験者は、《笑わせる》能力が極端に低い。 クソ真面目な硬直、ひとりよがりのご満悦。
  • 発達障碍化する思想と環境(計算による必然性の導出しかない)は、笑いの消滅に向かっていないか。
  • 笑いの《強度》をもつことが、本当に難しい。




*1:それに対して、フレーム意識が吹き飛ぶ笑いがないかどうか。

*2:なかなかうまく分節できませんが

*3:それによって、より必然性を生きることができる、つまり自由度が高まる。 自由というのは、メチャクチャに恣意的にやることではなくて、必然性を生きることだというのが、私の信念になっています。 【2012年6月22日の追記】:「自由とは必然性のこと、というのが信念だ」と言っても、信念を持てばその人の言動が必然的であり得ているかというと、そんな確証は何もない。自分は必然性の道を行けている、ゆくべきなのだ、という思い込みの滑稽さ。必然性は、パラノイアのテーマでもある。

*4:概念や議論の方針は、集団内の関係性にまで影響するはずです。

*5:「なんでその仕事を続けていくのか、動機づけは何なのか」といった、実存を問うような話だったと思います。