嗜癖化は、「場所の危険」を主題化しない

斎藤環は、洗脳されていることを問題にしない、「順応状態への嗜癖」を勧めている。むしろ、積極的に「洗脳されろ」と(参照)。被洗脳推奨としてのひきこもり臨床*1。 彼は、オタク的没頭やラカン理論への信仰を告白する。ガジェット遊びを推奨するだけで、政治イデオロギー嗜癖する左翼をバカにしていればいいと思い込んでいる。そもそも嗜癖そのものがまずいのであって、左翼イデオロギーへの嗜癖だけをバカにしていればいいのではない。斎藤環には、嗜癖と洗脳のプログラムしかない。あとは、「自由な個人は、肩書を離れてフレンドリーに同席できる」と本気で思い込んでいる。人が複数同席した場所には、目に見えない力関係が、すなわち順応のゲームがあることを、リアルタイムに分析することを禁じている*2。 オタク的なおもちゃ遊びを共有しようとしているだけで、患者側がみずからその状況を分析する権限は許していない(自分自身がそういう分析をしていない)。 彼はオタクとして、「ひきこもりオタク化計画」をしている。(参照


私が上でスケッチしたような、素朴な順応しかできないような人間が、「モラル・ハラスメント」系の人間と同席するのがどれほど危険なことか。――この点については、ジャーナリストで訪問活動をされている石川清が、2005年6月のKHJ全国集会(参照)で次のように発言している(大意)。

 ひきこもりといっても、本当に内向きに思いつめてしまう引きこもりと、事実上のボーダー(境界性人格障害)がいる。この両者を同席させるのは、きわめて危険だ。単に仲が悪くなるだけでなく、ボーダー側の挑発に引きこもり側が苦しいエネルギーを内側に溜め込んでしまい、ある日突然爆発してしまう。実際問題、刑事的な事件が起こってしまうのではないか。

 支援スペースの問題として、「ひきこもり型と非行型は同席させてはならない」(参照)ということ以上に、「ひきこもり型とボーダー型」は、繊細な問題になる。支援者との間だけでなく、支援される側どうしの人間関係においても、理不尽な支配が生じる。――「ひきこもりオタク化計画」だけで、ご自分のミッションを「仲間ができるまで」としてしまう斎藤環は、たまり場そのものに生じる問題をそれ自体として扱うことができない。ご自分自身を医師の役割に監禁してしまい、自分の順応問題を棚上げにしてしまうからだ。



*1:80年代消費文化的な相対主義

*2:左翼的に、「お前は医者だから」とスタティックに告発して終わらせるところにも、分析はない。 それは自分を告発主体にするアリバイ作りでしかない。