竹内外史『数学的世界観』


著者の竹内氏が《気になっているがよく分からないまま書きつけた論点》で共鳴できた部分を引用します。*1

 直観論理のなかで一番本質的で深い内容をもった論理概念は、「ならば」という論理概念です。これは、直観論理が人間に結びついている以上、時間とか、人間の経験とか知識とかに結びついた論理概念なので、必然的に内容の深い概念になります。
 一方、「ならば」は、ある場所から次の場所に行くという運動の概念に結びついているとも考えられます。直観論理は心の行為に結びついた論理ですが、心の行為もやはり空間的な運動とどこかに共通の基盤をもっていると思われます。
 数学で空間とか連続的な運動とかを取り扱う学問はトポロジーといわれ、連続の概念の入った空間のことを位相空間といいます。不思議なことに、直観論理を数学的に取り扱うことと、位相空間を数学的に取り扱うことはほとんど同じことになっています*2もちろんこの事実は、前にいった、人間の心の行為と人間の空間的行為の結びつきにあるのでしょうが、そのことがもっと正確にはどんなことを意味するのか、私には本当に知りたいことの一つです。(p.14)


  • 数学を基礎づける《論理》そのものが、時空間的なヒトの営みと重なる。ひたすら抽象的・形式的にみえる論理の営みも、この物理世界の営みの形をしている。


 われわれの物理学は、われわれ人間が外界を観察してそれについて考えてつくったものである。ところで、われわれが対象について考える、たとえば物理学をつくるということ自身が一つの生命現象であるにちがいない。ここに少なくとも、自分自身の外にある外界について考えるということと、自分自身の内部にあるはたらきについて考えるということとの本質的な差があることだけは確かである。(p.122)


  • 「生命現象としての学問」という視点。学問言語そのものが時空間的な営みであり生命現象である。
  • 簡単にメタを設定させない。《観察する自分自身》だけをこの物理世界とは別の何かであるようには決して考えさせないスタンスの必要。*3




*1:強調は引用者

*2:私は位相空間について未習なのでここは(非常に気になりつつも)意味が分からない。

*3:その意味で、例えばカントの "超越論的統覚" は明白に間違った傲慢な概念だ。