逸脱運動の素材的必然と、それを抑え込む記号の慣性



この本に掲載の三脇康生氏の論考「被災と分裂性分析」に、

    • 「記号の制度の分析」
    • 「時間の制度から《はみ出す》こと」

という節があり、先日引用したトスケイエス論への訂正が記されていた。*1
関連する箇所から、少し長めに引用しておく(強調はすべて引用者)。

 schizoanalyse という言葉に〔…〕分裂分析、スキゾ分析、分裂者分析のどの訳語を選ぼうとも、「記述から運動を生む」ために「記号過程に現れる解釈体」を、既存の制度からどうはみ出させるのか、それがガタリの分析の課題となる。


 「記述から運動を生む」意識のことを、ガタリの「図表的意識」、
 この際の記号過程を「図表化の過程」と考えてみたい。

      • これに続けて三脇氏は、グァタリ邦訳書『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』掲載の「図表的意識」という論考から、直接の訳文引用を行なっているのだが、三脇氏の文意との関係が全く分からず、訳文そのものとしても意味を理解できない*2。そこでブログ主が、引用された箇所のフランス語原文を抜き出し、自分で訳し直してみる。


グァタリ「図表的〔ダイアグラム的〕意識 La conscience diagrammatique」の原文】:
 Le vide de la conscience se transforme en perte d'inertie positive du signe qui est alors en mesure de fonctionner dans un processus de diagrammatisation. Peu importe que les signes a-signifiants aient été engendrés dans les affres et les douleurs conscientielles ! Ce qui compte, à présent, c'est que des systèmes d'inscription aient acquis une vitesse de déterritorialisation, une capacité de décollement qui leur permet de doubler, de simuler, de catalyser les processus de déterritorialisation des flux matériels, de telle sorte qu'à la puissance de la déterritorialisation matérielle soit conjointe la surpuissance des déterritorialisations machiniques signe-particule. ("La révolution moléculaire", p,487)


〔拙訳〕「意識の空虚は、記号の積極的慣性の喪失で変容するのだが、こうして記号は、慣性を失ったことで、図表化のプロセスのなかで機能できる。シニフィアン的な記号が、意識的な苦痛や恐怖のなかで生じたのは大したことではない! いま大事なのは、登録のシステムが、脱領土化の速度を獲得し、剥離の能力を獲得することだ。脱領土化の速度および剥離の能力は、登録のシステムが素材の流れの脱領土化のプロセスを倍化し、なり替わり、触媒することを可能にする。つまり素材的脱領土化の力に、記号-粒子の機械状の脱領土化の馬鹿ぢからが結びつく――こうしたことが大事なのである。」【※】



以下、【※】の箇所につけられた三脇氏による「註7」より:

 François Tosquelles : De la personne au groupe -- À propos des équipes de soins, Érès, 1995 の pp.207-236 に掲載された Note sur la séméiologie des groupes という発表を参昭のこと。『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』に掲載した拙論「精神医療の再政治化のために」において séméiologie記号学と訳をつけたのは不十分であったと思う。制度をいかに病んだものにしないかを考えたトスケイエスは、制度の、グループの症候をつかみ取る必要があったはずだからである。すくなくとも症候学=記号学ぐらいの訳をつけるべきであった。さらに『精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』の註ではトスケイエスの De la personne au groupe -- À propos des équipes de soins という本を(ぺージ数は該当しているが) L'enseignement de la folie *3 というトスケイエスの別の本に私は誤記している。ここに誤りを訂正し、長年の放置に対して、各位に謝罪申し上げたい。(p.131)



三脇論考の地の文戻って:

 ガタリは記号制度における「あらゆるはみ出し物」性を重要視した。
 この「はみ出し物」性は、ラボルド病院をはじめ全精神病院と精神病院外の(セクター制度)施設での、あらゆる制度から「はみ出し者」であることを要求したガタリが、記号論においても要求したものであると言える。(『現代思想2011年9月臨時増刊号 総特集=緊急復刊 imago 東日本大震災と〈こころ〉のゆくえ』pp.128-129)


メモ

    • たんに逸脱すればよいのではなくて(それでは逸脱のナルシシズムになる)、逸脱運動が素材レベルの必然性を帯びていて、それを記号と切り離すことができない、という話。グァタリはここで、記号独特の機械状の慣性を「馬鹿ぢから surpuissance」と呼んでいる。
    • 逸脱を最初から反体制イデオロギーに回収し、その支配下で意味づけて終わるのではなく*4逸脱運動の素材的必然を解放する努力、あるいはその環境整備として、記号論というジャンルが選ばれている。
    • 東浩紀的なデリダ論、つまり「記号断片の確率性や郵便性」という議論では、逸脱の《運動》そのものを話題にすることができない。いっぽうグァタリでは、逸脱そのものの時間的な動き、不定詞的な展開がモチーフになっている。▼イデオロギー的な意味づけの支配を逃れ去るのは、断片だけではない。《闘争≒漏洩》は、記号の運動そのものにすでに生じている。ここを内在的にモチーフにすること。
    • 【6月8日早朝の追記】「déterritorialisations machiniques」を「機械的脱領土化」と訳していたのだが、「機械状の脱領土化」にした。ここでは、悪い意味での「記号の慣性」のニュアンスと、記号がかかわる形で内発的な結びつきの創発があるという良いニュアンスがきわどく同時に語られている。▼記号が関わるから、慣性がないというわけにはいかないのだが、わざわざ「記号-粒子」と言うのは、シニフィアン的な自動性ではなくて、バラバラに断片化したうえでそれをもう一度やり直すことを語ろうとしている。




*1:精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』掲載の三脇論考のタイトルは「精神医療の再政治化のために」だが、訂正文では「精神科の再政治化のために」と誤記されている。

*2:いちおう邦訳書の杉村訳を引用しておく。「意識の空白は記号の肯定的な惰性に変容して、そのとき図表化の過程のなかで機能することができるようになる。非シニフィアン的諸記号が意識の苦痛や苦悩のなかで生み出されたものであっても、それはたいして重要な問題ではない! いま、重要なことは、この記号の登記システムが脱領土化の過程を追い越したり、それになりかわったり、その触媒として機能すること――したがって、物質的脱領土化の力に記号-粒子の機械的脱領土化の超力が結びつくということ――を可能にするということである」(邦訳『精神と記号 (叢書・ウニベルシタス)』p.113)

*3:ちょうど今年の4月に再刊されていた。肝腎の『De la personne au groupe -- À propos des équipes de soins』のほうは品切れのままだが…。

*4:それでは、逸脱者を反体制イデオロギーのネタにして終わる。これでは「漏洩線 ligne de fuite」から、唯物論的な漏洩性が失われる。