「稽古」及び「練習」の語誌的研究(南谷直利、北野与一)

日本語ネイティブのかたは、「稽古」と「練習」という言葉は、いつの間にかそれとなく、使い分けていますよね。しかし違いを説明しろと言われると、よく分からない。そこで以下の論文を読んでみました。
http://www.hokuriku-u.ac.jp/jimu/kiyo/kiyo26/hou1.pdf
知りたかったことが、いくつも書かれてありました(PDF注意)
強調や段落分けをしながら、抜き書きしてみます。

《稽古》

 稽古の原義とその出典に関し、辞典は一致している。つまり、その原義は、「(いにしえ)(古道)を(かんが)える」であり、『書経-尭典*1がその出典であった。
 この原義は、その後、南朝宗時代に入り、「学問。又、学習する。練習する。」、「学術を研習する。」、「書を読んで学問すること。また、学んだところを復習すること。」の義をも生む。その転義の出典は、後漢の歴史を記した『後漢書』(恒栄伝)である。〔…〕

 稽古は、『書経』や『後漢書』等の漢籍によってわが国に移入された漢語である。〔…〕 6世紀に入っての五経博士の幾度かの来朝によって、『書経』を初め『礼記』等の典籍が少なからず伝来したのである。〔…〕 わが国で漢字が定着し、文字による学問がレベル・アップしたのは、6世紀末から7世紀にかけての飛鳥時代である。〔…〕

 『古事記』(712年)の上巻の「序」に、
「雖歩驟各異、文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽、照今以補典?於欲絶。」(歩驟格異(ほしうおのおのこと)に、文質同じからずと(いえど)も、(いにしえ)(かんが)へて風猷(ふういう)(すで)(すた)れたるに(ただ)し、今に照らして典教(てんけう)を絶えむとするに(おぎな)はずといふこと()し。) 【現代語訳】→《(歴代の天皇については)その治政に、歩くのと疾走するのと、というように緩急それぞれあって、華やかと素朴とこれまたそれぞれ相違はあるが、(いずれの天皇も)古の聖賢の道を考えて、教えの道がすでに廃れてしまうというときにはしっかり正され、今を照らして、常に守るべき教えが絶えようとすると補い正すことをなさらなかったことはなかった。》*2
の一節が見られる。この太安万侶(?〜723年)の記した「稽古」が、わが国の文献上における初出といえよう。

 訓読みの「稽古」は8世紀頃から、音読みの「稽古」は9世紀頃から使用されていったものと考えられる。〔…〕 平安時代(794〜1192年)の末期には、すでに中国の『後漢書』に現れた前述の「学問。又、学習する。練習する。」「学術を研習する。」意の「稽古」が少なくとも有識者間で慣用されていたと言える。

 「武藝」は、700年代の初め、文武天皇(在位697-707)の在位時に兵士を対象に武技を教え習わせたことと係わって用いられた語彙で、〔…〕この『続日本紀(しょくにほんぎ)に登場した語彙が初見と考えられる。〔…〕 高橋昌明は、「武士=芸能人 説に立てば」と前置きした上で、「武士は奈良・平安時代の初期から存在して」いたと指摘している。*3

 『日本書紀』(720年)の中では、「武事」と係わって「習」、「試練」及び「教習」などの稽古の語類が使用されていたが、その後、武芸の稽古と係わって多くの類語が使用されていく。例えば、「練習」、「調習」・「簡練」・「練」、「便」、「精練」、「学」・「選練」・「便習」などの語彙が使用されたのである。なお、注目すべきは、これらの語彙が平安時代以降に多様な分野でも慣用されるようになったことである。

 以上の事例は、われわれに幾つかの知見を提供してくれている。

  • その一つは、〔…〕平安時代に入ると「稽古」が「稽古」と音読みされ、「古のことを考える」意とともに、「学問をする」ことの意とも係わりを強めていったことである。
  • その二は、鎌倉時代(1185-1333)に入り、学問に係わる稽古は定着傾向を示し、同時に学問の分野だけでなく、仏道の修行や和歌の詠作、さらに武芸の修行の類義語としても用いられるようになったことである。
  • その三は、室町時代(1336-1573)に入り、武芸の稽古は、「能」などの芸能に係わる稽古とともに定着を示したことである。

 なぜ鎌倉時代にこの稽古が多様な分野で慣用されるようになったのか。〔…〕 幾つかの社会的要因が考えられるが、当時代の武家政権社会の上層を占めていた「公家」及び「武士」を中心に考えてみたい。
 「文の代表たる菅原道真が弓射の嗜みを持っており、試すと百発百中であった」ことや「藤原兼家がわが子道綱に弓の師をつけた」ことなど、平安時代から鎌倉時代にかけての上流貴族と武芸との係わりは強かった。 一方、〔…〕 「武士が舞人となる史実は多く」、武士は、「芸能」(「古代・中世で芸能といえば広く技芸・技術・学問などの才能能力をさしていた」)と強く結び付いていた。〔…〕 武士は、武芸をもって死と対決する人たちであるところから、「武芸・武術と辟邪(へきじゃ)の関連」はいうまでもなく、宗教的修行とも深く結び付いて戦勝や技術の向上を求めたのである。ここにもまた、修行と稽古の類義性を見ることができる。




《練習》

 練習の原義と出典について、各辞典は、次のように報告している。〔…〕
 以上の三者の共通点は、「練」は「煮て柔らかくする」意であり、「習」は「くりかえす行為」の意であり、〔…〕 練習の原義は、「ある行為を上達するようくり返したり、また、くり返してある技術を身につける行為」であり、その出典は、『魏志』や『晋書』であった。
 こうした点から、練習という語彙は、3世紀から7世紀にかけて「兵馬」や「武芸」に係わって慣用された漢語であり、稽古よりも若干新しく、かつその誕生の趣も異なる語彙であったと言える。

 管見の限りでは、『続日本紀(しょくにほんぎ)に記載されている「弓馬」が初出と考えられるわけである。なお、『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)の「太政官符」は、公文書中の事例であり、武芸に係る練習という語彙の慣用の程度を知る上で貴重な事例である。

 練習は、平安時代から室町時代(1336-1573)にかけて、武芸を初め、多様な分野に慣用が拡大していった。〔…〕 練習の慣用分野の多様化と定着過程等について、次のような諸点を指摘することができる。

  • 平安時代の中期頃以降、練習は、書道の分野でも慣用されるようになり、この分野での定着傾向を強めた。
  • 蹴鞠(けまり)は、B.C.2500年頃、中国で誕生し、漢代にはゲームも行なわれたとされており、〔…〕 わが国では、古代から貴族社会で行なわれ、鎌倉時代(1185-1333)ごろから体系化され、飛鳥井と難波の両派が栄えた。この「蹴鞠」学習の中でも練習が慣用された。貴族社会という一部の人たちのこととは言え、武芸と異なる身体運動学習の中で慣用されたことは、現代にも通ずるものがあり注目に値する。
  • 鎌倉時代から室町時代にかけて、学問の分野を初め、歌道の分野など、練習の慣用分野が拡大し多様化の方向を示した。

 以上のように、平安時代半ば以降室町時代にかけての練習は、主として朝廷関係者、公家や貴族、あるいは武家等の上層階級に属する人たちによって、稽古の類義語的位置付けで多様な分野で慣用されたのである。

 練習という語彙は、江戸時代(1603-1867)に入って武芸の発展とともにその使用が強められていったわけではない。〔…〕 各藩の公文書中に使用されている練習及び類義語を調べたとき、少なくとも次の諸点を指摘することができる。

  • 第一点は、練習という語彙の使用の少なさとその類義語彙使用の多さである。武芸の分野では、〔…〕 「修練」、「鍛錬」、「修行」、「習練」、「習業」等の類義語が使用されたのである。
  • 第二点は、練習が維新前後になって稽古以上に使用されるようになったことである。勿論、前述の類義語も慣用はされていたが、〔…〕 軍隊教育とも係わって新たに「調練」、「操練」、「教練」、「演習」、「簡練」等も登場した。
  • 第三点は、明治期(1868-1912)以降、近代的軍隊の創設や近代学校教育制度の導入、あるいは近代スポーツの移入など欧米文化の導入とその啓蒙と係わって、練習があたかも近代的で啓蒙的な新しい語彙のイメージをもって慣用されるようになったことであり、training、exercise、practice(英)や Übung(独)の訳語として定着していったことである。


メモ

    • 「お稽古」は、「女子供」というニュアンスをつけて使われることがある。自律的な主張が許されない、という意味ゆえだろうか。
    • 西洋風ジャンルのプロ養成では、「稽古」という言葉を使わないように思うのだが、どうだろう。
    • 練習・稽古の類義語はたくさんあり、それぞれで趣旨や力点が異なるようだが、現役で生き残っている言葉はあまりない。

【つづき:「練習と稽古」】


*1:【ブログ主による注】: 成立時期は、春秋時代頃(前770年〜前453年)とされている(参照)。

*2:新版 古事記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)』p.250より

*3:武士の成立 武士像の創出』p.35