批評というなら、社会性についてこそ批評が成り立たねばならない。

    • 「社会 society とは何か」*1ではなく、「社会性 sociality とは何か」
    • 社交性 sociability は、必ずしも 社会性 sociality ではない。

単なる規範遵守を社会性と勘違いする貧しさ。
触媒は、永遠の構造を描き出すのではなく、具体的に生まれて消える繋がりを作る。永遠の一部に固着するのではなく、プロセスを生きる。単なる自然過程ならぬ人間では、それは避けられない。

    • 個物は商品化以外の仕方で社会化し得るか。
    • 社会化されない労働過程は何事でもない。単なる物質過程。

スタティックに「社会性とは何か」を描くことは、それ自体がある社会性の mode を生きることでしかない。 「社会性とは何か」は行為遂行的な問いであり、みずからが賭けのように「社会化された自分」を示さなければならない(失敗し得る)。

employability (被雇用可能性、市場価値) 参照

  • ある個人やモノが、社会化される可能性(被包摂可能性、社会価値) socializability
  • 社会関係においては、お互いが同時に《包摂する側/される側》になる。 簡単に相手を全肯定はできないし、全否定もできない。 お互いに環境要因になる。 自分がどのような状態を維持するかは、「環境設計」の一部になる。 ▼ある環境では「コミュニケーション能力が高い」と評される人が、別の環境では黙り込むことしか出来ない(排除やいじめの対象になる)ことがある。

社会性を高めることは、必ずしも市場価値を高めることではない。しかしそれを言い訳にはできない。



*1:「社会とは何か」では、自己チェックの必要性が格段に下がる。 社会をメタに論じる、そのスタイルをベタに踏襲することで関係を再生産しようとする。 関係が硬直しているというより、《関係のスタイル》が硬直している。