臨床論としてのタルドと高田保馬

以下の研究会を聴講しました。

 科研研究プロジェクト「ひと概念の再構築をめざして」
 研究会 「模倣・勢力・資本 −タルド高田保馬−」

 19世紀末に活躍したフランスの社会学ガブリエル・タルド(1843-1904)の「模倣」という概念を出発点に、日本の経済学者高田保馬(1883-1972)の理論との比較を交えながら、資本主義経済下さらにはネオリベラリスム下における「ひと」のあり方について議論したいと思います。



マルクス主義批判として展開されたという高田保馬の「勢力論*1が、私には「ひきこもり臨床論のヒント集」みたいに聞こえた。 「自発と強制」、「服従における測りがたき力からの触発」、「権力が尊重をよびさます」云々。
「自分カルト」*2と言われたりする引きこもりでは、社会関係に合流するための《服従》も、自らの持続的な《勢力》も持てずにいる――とはいえそれは規律訓練的に説教しても始まらない。 いわば「転移が起きない」状態だから。
高田保馬の議論は、「すでに展開している勢力」の分析には役立つが、今からそういう「巻き込み、巻き込まれ」の関係を生きなければならない、《事前》段階にある個人に対して、あるいはそういう個人を抱えた集団に対して、どういう技法を編み出せるか*3。(目指すべき成功を事後的に示すだけでは、臨床論としては害にすらなり得る*4。必要なのは、その事前と事後の間に介入する技法だ。)
「社会とは模倣であり、模倣とは一種の催眠状態である」(タルド)。 今は、他律性を嫌う*5人に内発性を巻き起こすことが政策課題にすらなっている。 あるいは悩む人自身が、「何かに熱中したい」と《模倣≒感染》を待望している――などなど。

今回あらためて思ったが、

億単位の予算が落ちる対人支援の場は、恐ろしいほど文化的に貧しい*6。 「合宿して早起きして共同作業」とか。 「当たって砕けろ的にやるしかない」というような。 いっぽう学者の先生方は、文化的な豊かさはあっても、ご自分たちが重要なヒントを秘めていることに気づかない状態にある、らしい*7
もうちょっとこう、シャッフルできないもんでしょうか。

    • 【12月14日追記】: アカデミシャンにとっては、学説の領域でひたすら言説展開することが、ご自分の《勢力》にかかわる。 学問言説や馴れあい的な雑談を離れて、ご自分たちの関係実態をリアルに問題にし始める労働は、いつの間にか排除される。人が似てくるというよりも、要求される関係のあり方が均されていく(それは結果的に、人をならしてゆく)。 現状では、ドゥルーズガタリの専門家ですら、ご自分の中間集団の関係実態を話題にできていないように見える。ポストモダン思想家の「人間関係」が、前近代的なのだ。


*1:タルドの模倣理論が叩き台になっている

*2:斎藤環参照

*3:たとえば意思決定システムの変更は、それ自体が「臨床行為」と言えないだろうか。

*4:宮台真司氏の議論は、この意味でこそ決定的に間違っている。

*5:「他律性を嫌う」というこの言い方自体が、タルドに言わせれば「勘違い」なのだろうけれど

*6:「入塾者490人のうち就労率が55%であれば、昨年度は250人の自立のために3億7500万円を使っていることになる」(事業仕分けで廃止になった「若者支援」

*7:私は大黒氏のお話をもっぱら臨床論として伺ったのですが、それは大黒氏にとっては意外だったようです。