「読み合わせ」

ある地域の「若者サポートステーション」オープニング・イベントで講演させていただいたのですが、やはり《読み合わせ》という表現に、強い反応をいただきます。


申し上げているのは、次のような説明です。

 私たちにはそれぞれ所属や立場があって、できることが限られています。 いわば、それぞれが脚本を持っていて、それを無視することはできない。 しかし、せめてお互いの事情を調整しながら、できることを模索しあうことはできないでしょうか。 つまり、演劇などの領域で「読み合わせ」と呼ばれているような作業です。 「母親」や「支援者」など、それぞれが勝手に自分の役割を決めて背負い込むのではなく*1、「読み合わせ」をして、思惑をすり合わせていく。 それで、願わくばそこにひきこもっているご本人にも参加してもらう。 本人にも言い分があるでしょうが、周囲も大変なわけで、それを突き合わせていく中で、少しずつお互いの事情を満たしていく。 社会に参加するというのは、実は周囲の関係に参加できるということなので、本人だけを見ていてもダメだし、誰か一人だけが負担しても無理です。 全面受容というのも、じつは役割に監禁することにすぎない*2。 集団で話し合う、その「読み合わせ」を中心に、支援を考えていくことはできないでしょうか。

これまではたんに《交渉》をキーワードにしていたのですが(参照)、その発展形というか、より優れた表現だと思います*3


「読み合わせ」そのものを拒否された場合はどうするのか*4、そもそもひきこもるご本人は、こうした交渉関係が無理ではないか――など、まだ課題は残りますが、支援の状況そのものを複数的な交渉関係の束と見て、一つひとつのローカルな取り組みを中心に考える必要があります。 《順応》のためには、「どこか中心にある脚本がすべて支配している」という考え方は、それ自体が害悪です。

    • 【追記】: 「読み合わせ」は、さまざまな嫌がらせへの有効な取り組みでもあると思います。最もまずいのは、被害者の《孤立》でしょう。過剰な被害者意識かどうかを検証するためにも、集団での検証が必要です。場の状況がつねに複数で検証されていれば、嫌がらせそのものが起きにくくなるのではないでしょうか。




*1:それはたいてい、お互いにすれ違っています

*2:社会に参加すれば、いずれ過酷な交渉関係に巻き込まれます。 あるいは、「ひきこもっている状況」は、すでに交渉関係の硬直です。

*3:ひきこもり支援だけでなく、職場の環境改善などにも使える表現ではないでしょうか。

*4:役割固着的なふるまいをされたり、最終的な意思決定権を持つ人にすべてご破算にされたり