「社会とのギャップ」は、「埋める」ものではなく、「取り組む」ものではないか(有限の生の範囲内で、終わりようがない)。 「ひきこもり」は「入口」で、その周辺で自分の取り組みを模索する。 「治る」のではなくて、「自分の取り組みが始まる」。
順応という形で社会とのギャップを埋める人はそれで頑張る。 自分なりの極端なチャレンジを始めた人は、取り組み始めた新しいフィールドなりの試練が待っている。
ひきこもりについて考えることが自閉していくなら、考えることは社会から離脱することでしかない。 取り組みが社会化される必要があるが、それは一人では無理だ。 自分は黙ってやってみるしかない。
この永冨さんの文章には、僕への批判も含まれていると思う。
僕にも反論はあるが、彼女の記述する逡巡そのものが理解できない人は、ひきこもりやニートに関する議論から撤退してほしい。