• 「現実逃避とは何か」という問いは、自己検証的(自己言及的)に機能しなければならない。 その問い自身が逃避行動であり得る。
    • 柄谷行人氏の表現を借りれば、「現実逃避的ではない」(=批評的である?)ためにはフットワークが要る。 ある固定的立場や理論的態度が無条件に「現実逃避ではない」を保証するわけではない。 「現実逃避であるかどうか」は、リアルタイム検証の射程圏から逃げられない。
    • 「何が逃避と見なされるか」は、極めて(いわば)政治的。 歴史的・地理的・文脈依存的、など。
    • 自分の使っている≪現実≫概念について検証する必要。 たぶん、無自覚に硬直している。

 私にとっては言葉の外部は存在しますし、すべてはそこから出発しているのです。 それを安易に現実的なものと呼ぶのは差し控えます。 と言いますのは、現実という概念には多数の形而上学的な前提がまといついているからです。 (デリダジャック・デリダのモスクワ』ISBN:4931391214 p.145)

    • 「現実逃避」を思想史的・社会的に検証する必要がある? 「現実逃避」という概念そのものの社会的命運?