「デキル人に予算を、デキナイ人に選択肢を」

 ベーシックインカム財政的に実行可能であるとしても、それは政治的には絶対に実行不可能であると指摘される。

 一国レベルでのベーシックインカムの導入は、個人所得税でまかなうにせよ、富裕税などでまかなうにせよ、金持ちの海外逃亡と貧乏移民の大量流入をまねくとされる。
 世界規模の政治的意思決定機関を欠いた現在の国家間体制では各国が互いに牽制しあってベーシックインカムの導入には至らない、という結論になる。特に政策決定者が「合理的」であればあるほど、囚人のジレンマ状況は避けられないというのだ。*1



「まったく研究成果を出さない人にも一定額の給与が保障される」ような大学があったら、そりゃみんな殺到するか。しかもその給与が、「デキル人たち」の成果の再分配だとしたら・・・・「デキル人たち」は純粋競争状態を求めて学外逃亡。――いや、社会全体の再分配と、大学内の研究費割り振りの話をごっちゃにするのは乱暴すぎるな。研究成果は、それ自体が収益を生む商品ではないし。


上で書いたけど「デキル人」=「稼ぐ人」ではないですよね。ある学問や芸術にものすごく秀でた人であっても、その成果自体が経済ベースに乗らない場合には、報酬には結びつかない。自分を「デキル人」と認めさせ、かつそこに経済的な報酬をもたらすことは、それ自体が自己演出というか、自己プロデュースというか、政治的な自己アピールだ(評価にはもちろん社会的な文脈もある)、と言ったら大げさすぎますか。(こういうのって、たとえば「マーケティング」の話になるんですか?)


「才能のある人に予算がまわり、いったんドロップアウトした人にも再チャレンジの選択肢がいくらでもある」というのは、社会を棲みやすくするために大切な条件だと思うのですが、いかがでしょうか。
「デキル人」と言ってもその評価軸は多様であるべきだし(その意味で経済的恩恵を受ける「デキル人」が多様な形で生まれるべき)、「デキナイ人」も、まったく違った新天地やジャンルでは存在意義が発生するかもしれない。