ターゲット――事前設定と事後的確定  ほか

 昨日のコメント欄 id:bmp さんへのお返事なのですが、大切な話なので日記本文に。

#bmp 『(そもそも「社会的ひきこもり」には、精神疾患を第一原因とするものは入らない。)
 なんで今その定義を使う事に何の疑念も無いのか・・・。以前俺は個々の状況を判断した上で「明確に精神的障害・ダメージをもつ人を除いた場合」こう言ったんですが、ueyamakzk さんが線引きが難しいと言っているんですよ・・・
 統合失調症であるかどうかは、個別の事例なので本来考える必要はないと思います。線引きできないとおっしゃるので、出しましたが、出来るなら、必要ありません。できるのかできないのか、とても恣意的に見えるんですよ。』



●失礼しました。以前に bmpさんが「明確に精神的障害・ダメージをもつ人を除く」とおっしゃった時には、私はその範疇に「統合失調症」だけでなく強迫神経症とか、PTSDも含むものと解釈していて、それで話が混乱してしまいました。つまりこの場での議論は「統合失調症」を対象にしていない、というのは共有できる前提なわけですね。――ただし、「精神疾患は除く」と言っても、じゃあ鬱病はどうなるのかとか、PTSDは「疾患」じゃないのかとか、難しくて・・・・。私の「ひきこもり」に関する努力は、言葉や対人接触など、文化的刺激において何ができるか、というものでしかないため、それが「精神疾患」にどこまで意味があるのか、あるいはないのか、というのは、実は自分でも射程が分からないんです。ひとまず私は自分の経験と葛藤を中心に考えるしかないのですが、今後のお話の中で、どういう展開になるかは分かりません。ぜひいろんな方にご教示いただければと思います。(そういえば先日ご登場くださった「jam_ojisan」さんは鬱病だとおっしゃっていましたね・・・。)




●「統合失調症による閉じこもりは除く」のはいいとして、それでも「線引きが難しい」と申しましたのは、支援努力のターゲットをどう設定するか、と同時にそのアプローチの仕方は?という話をしたかったからです。つまり、私としては

  1. ご本人については、自主的な要望がないかぎり接触はしない
  2. ご家族については、必要であれば別途にご相談をお受けする

――という前提。ですから、「ご家族から要請を受けて、ご本人に無理にアプローチする」のはNGではないか、と思ったわけです。
●ご家族が困り果てている場合には、とにかく家族内での対話を試みてもらうしかないのですが(その際に斎藤環さんの『「ひきこもり」救出マニュアル』ISBN:4569621147 がとても参考になると思います)、それもあくまで対話的関係をご本人との間で試みる、という段階的手続きの努力であって、家族の要望を一方的に押し付ける、ということではありません。――ちなみに私自身がそういう段階的手続きでご本人との対話的接触に成功したのは2例しかありませんし、それも継続的な関係にはなりませんでした。




●ですから昨日の日記本文で私が「商品生産をモデルに」云々と書いているときには、そういう対面接触のことは考えていなくて(というか諦めて)、「向こうから興味を持ってもらえるように」ということで書いたわけです。ちなみにこれは、物や人に興味を持ってもらうことによる「ひきこもりのオタク化(あるいはマニア化)」の戦略と言えるかもしれません*1。オタクやマニアの人は、自分の執着対象への愛着を通じて、狭いチャンネルではあっても他者との共感回路を持っています。自分の興味ある物への消費行動も旺盛だし、そういう仕方で外界に接続していけるかもしれない。――いや、しかしいわゆる既存のオタクやマニアのメンタリティをなぞる必要はなくて、私たちなりの新しい外界への接点というのを作り出そうとしているのかもしれない。(私が「商品生産」と言って資本主義に巻き込まれる形をモデルとしつつも「新しい形」を云々するのはそういう意味です。つまり一過性の消費対象としての商品ではなくて、それに触れることで価値観的で持続的な取り組みの芽が点火されるような、そういう商品というか。*2) そう、私の立論は、基本的に「対人接触アプローチ」への深い絶望に基づいているのだとご理解ください・・・。




●「ひきこもり」の定義については、支援を試みる側各々の「活動の自己規定」という認識でいいのじゃないでしょうか。私は「ひきこもりの客観定義」と「支援のターゲット」が一致しないように思えて――つまり私の関与を望まない当事者の方が多いわけですから――混乱したのですが、これは、自分の努力の事前段階において「ひきこもりの定義」と「支援のターゲット」を重ねようとしたことによる混乱です。ですから、事前段階においては斎藤環さんなどが提唱されている大まかな客観定義および「自分の心の中にあるひきこもり像」に話をとどめておいて、「自分の努力のターゲットは誰か」という明確な線引きについては、「商品が売れる」現象をモデルに「売れたあとになって誰がターゲットだったかが分かる」方法論にしたかったわけです。
●つまり、こちらが「ひきこもりとは○○だ」と定義し、それをターゲットと認定したとしても、その相手がこちらを要望していなければ手は出せない。しかし、なんらかの形で「要望」されるためには、こちら側からの「提示」が必要で、その「提示」のためには、一定の「ひきこもり理解」に基づいた枠組みが必要です(おっしゃる通り、さもないと努力自体が成り立ちません)。こちらとしては一定のひきこもり定義に基づいて努力しても、それが誰にヒットするかは「ヒットした後になって分かる」というわけです。ですから事前には一定のひきこもり理解があったとしても、事後には「私の努力はこういう人にもヒットするのか」、逆に「私はこういう人をターゲットにしたつもりだったのに駄目だったか」、ということにもなるわけです。




●つまり私は、家族からの要請による本人へのアタックには絶望していて(それは家族からの要請の代理人になるだけですから)、かつご本人からの接触要求にも自分にできることはほとんどなく(宿泊施設や就職斡旋なら日本中に試みがたくさんあります)、自分にできることは何だろうと考えた時に、そして自分自身が1当事者として一番何を切望しているだろう、と考えた時に、文化的に徹底して突き詰めた議論と、そこから出てくる新機軸に基づいた社会的取り組み*3だと思うんです。単なる社会への迎合(いわゆる「社会復帰」)ではなく、せっかく「ひきこもり」という形でトラブルに直面したのだから、それを基軸に、新しい取り組みに向けて漕ぎ出せないか、と。




●もちろん――繰り返しになりますが――、こうしたことは私の願望と前提であって、単に無条件の社会復帰を望んでいる方も多いだろうし、ひょっとすると強硬なアプローチによって元気になって「無理に連れ出してくれて感謝します!」という人もいるかもしれない。それどころか、私や bmpさんが却下した新興宗教的「洗脳」によって社会参加を始める人もいるかもしれない。そうした人たちについては、私なりの立場から批判することはあると思いますが、「ひきこもり」と定義したからといって種々様々な立ち直り方があることについては何も言えないと思うのです。つまり「ひきこもれ!」*4という主張など、ひきこもりを巡るイデオロギーがあって、かつそこから社会参加していくプロセスにも支援者のイデオロギー的な思惑が絡んでくると思うのですが、私としては、1当事者としてそういう縛りに巻き込まれるのはイヤですし、自分も当事者たちに対してそういう縛りをかけたくありません*5




●ですから「ひきこもり」というのは、状態像としては極めて似通っていますし、その意味では大まかな定義としては斎藤環さんなどが提示しているもので充分なのですが、いざ支援的アプローチとなると、こちらの努力が意味をなす対象というのは恐ろしく限られてくるし(しかも興味を示してくれる人が事前の思惑と違っていたりする)、それは仕方ないし、だから「誰をどのように対象とするか」というのは支援者各人が線引きするしかないと思うのです。
●その線引きとアプローチのスタイルが明確になれば、それに賛同する協力者も現れてくるだろうし、興味を持ってくれる当事者も限定的に現れてくるんだと思います。私としては、自分のキャラクターに応じてできることをやって、賛同してくださる方や興味を示してくれた当事者の皆さんと一緒に何か創っていきたい、という感じでしょうか。そしてもちろん、こうした支援の試みのもろもろというのは並立的に共存すべきだと思うのです。私にできないことが bmpさんにできるかもしれないですし、それは誰にとってもお互い様です。それぞれが有効に関与できる当事者のタイプは違っているでしょうし、うまくいけば、支援者のネットワークによってお互いに当事者を紹介し合う、ということもできるのではないでしょうか。(実は私はそうしたネットワークこそが理想的だとずっと思っているのですが、ひきこもり支援というのは往々にして極めて派閥的で、なかなかそうした連携プレーは実現しないようです。)




●そこまで確認できた上で、私の立場から今後問題意識として強調したいのは、やはり「本人の欲望」という、得体の知れない、なんともアプローチしにくい、極めつきの脆弱な稀少動物のことでしょうか。ですがこれはまさに、本人の「自由意志とは何か」という、わかりにくい――それこそ bmpさんの言う「偶発性」「洗脳」も絡んでくる――問題設定なので、できれば「ひきこもり」を通じて、そうした一般の問題にも通じた議論が展開されるべきなのかもしれませんね。ひとまず私は、一定の理解に基づいて、自分なりの努力を展開するしかないのですが。今後予想される豊かな議論については、その都度その都度吸収して、微妙に軌道修正していくしかないのだと思います。*6




●対人アプローチへの疑問としてさらに一点付け加えるとすれば、私としては「魅力的な人物に求めてもらえる」という体験が決定的ではないか、と思っているのですが、こちらから押しかけていくアプローチでは、当然相手はこちら(支援者)に興味を持っていないし、いっぽう当人が自主的にアクセスしてくれた場合でも、今度は支援者の側が当事者に興味を持てるかどうか分かりません。つまりお互いに「求め・求められる」関係がないところでの対人接触が、持続的な社会参加へのモチベーションたり得るだろうか、という疑問です。私が「作品(制度的なものも含む)への興味」とそこから展開する「一緒に取り組む」形を強調したのは、この「相互的興味」を目指したかったからです。(一方的に興味を持ってもらえるだけでも何がしかですが。――ちなみにこれは精神分析でいう「転移操作」の問題になるでしょうか。)*7
●もちろんわずかな確率においてお互いに興味を持つこともあるわけで、その意味で今後も対人接触の試みが無駄だとは思いません。ただ、技法の問題としてさらに気になるのは、当事者と支援者の関係にどうやって線引きをするのか、あるいはしないのか、という問題です。実は私も、「お互いに興味を持てること」を目指して当事者への接触を試みていたのですが、訪問依頼自体は「仕事」であっても、最終的には「個人的な友人になること」を目指すべきだと思って、実際にそういう前提で動いていました。しかしすぐに気付いたのは、それでは私が滅茶苦茶になってしまうということです。つまり「ひきこもり支援」がいつの間にか私の個人生活まで侵食し、いつが仕事でいつがプライベートなのかが分からなくなってしまう。・・・・これは本当に気が狂いそうな状況で、私が挫折した大きな原因もここにあります*8。ですから私が「商品生産」をモデルにしたのは、公私の境目をちゃんとつけたかった、ということもあります。――例えばフリースペースでも、「スタッフと当事者」には明確な線引きがありますし、精神科医なら「医師と患者」です*9。「線引きがあるのはいけない」ということではなくて、実は当事者の中には、「線引きがあるから安心して話せる」という人もいるわけですね。bmpさんが具体的にどういうアイデアをお持ちかはまだ分かりませんが、この「公私の区別」については、ぜひ注意が必要だと思います。そこには多分、ひきこもり支援における技法論上の問題が集約されています。*10




●さて、・・・・長々と書いてきましたが、今回のレスポンスでは、私なりに自分の論点を整理できたようにも思います。ご期待に添えたかどうかは分かりませんが・・・・。





*1:そういう意味では、滝本竜彦さんの作品は――ご自身にそういう自覚はないでしょうけど――ひきこもりに執着のネタを提供してくれた、という意味で稀有だと思うのですが。

*2:いや、やはりオタクの人みたいに、職業生活でも趣味生活でも資本主義ベッタリ、しかないのかな? 職業生活では無理な我慢を苦しんでして、それを支えるために、プライベートな時間では個人的な趣味に没頭する、という・・・。でも苦しんでいる人間としては、なんともシニカルな生き方ですね・・・。

*3:大袈裟ですが・・・・。そもそも、こうやって文章をウェブ上に掲載することだって「社会的な取り組み」ですもんね。いちおう僕としては、地域通貨などにも期待するところがあるので、こういう言い方をしたのですが。

*4:吉本隆明

*5:私が「新しい設計図に基づいた決済手段としての地域通貨PICSYLETSなど)」でいちばん着目したのは、経済的な意味やイデオロギー的な意味云々ではなく、参加そのものによっていつの間にかもたらされる(かもしれない)無意識的な心理効果の側面です。その効果は「地域的だから」というわけではなくて(それもあるでしょうが)、むしろ決済メカニズムの設計図が独自のものであることによってもたらされる効果です。――実際には、こうした取り組みは往々にしてイデオロギーの温床となりがちで、それは困ったものですが。

*6:でも私としては、本人の「生きていく欲望」がどうであり得るのか、それは常に問題にせざるを得ないと思います。その欲望が社会的に居場所を得られるかどうかも含めて。

*7:精神科医の面接」では、クライアントが医師に興味を持つことはあっても逆はないわけですが(逆転移はありますが)、斎藤環さんはそういう面接室での関係はマニュアル的なものに徹して、「相互的興味」については「数人の親しい友人ができた時」――斎藤さんはそれを自分の治療的かかわりのゴールとしています――において体験してもらおう、ということではないでしょうか。(これは私の立場からの憶測ですが)。

*8:ある支援者希望の方はこのことに困惑して、2週間で音を上げてしまいました。

*9:ちなみにフリースペースでも精神科医でも、対象となるのは「自分で希望して出てきてくれた人」です。

*10:たとえば自助グループでは、「スタッフと当事者」という制約は取っ払って、「当事者同士の対等な関係」においてできることをお互いに模索するのだと思うのですが、そこでもやはり、「公私の区別」というのは大事で難しい問題だと思います。