どうやって孤立を回避するか。その方法論で、立場が分岐している。なのに、そこを誰も語らない。
「社会的包摂」というが、自己を対象化する分析を試みれば、たいていの共同体からは排除される*1。 むしろ、分析の努力を通じて孤立が回避されなければ。つまり、ふつうの共同体では孤立の原因になる努力が、つながりの理由になる。
《居場所》というどうしようもない言葉やモチーフが、ミクロな政治にまみれていることを無視してはならない。ところが既存のアカデミズムや知識人は、現場レベルの技法や工夫について、何も当事者的な試行錯誤を語れない*2。 臨床家も、一対一の技法は話題にしても、《居場所》そのものの政治は語らない。しかし、居場所の政治は、職場の政治につながっているし、家の中にも政治がある。
宮台真司の言説においては、「act locally」は、「フレンドリーに世話を焼く」というぐらいの意味で、「俺もローカルに頑張ったんだ」というアリバイ作りでしかない。その「act locally」そのものにおける分析や技法が必要なのに。 メタに語ればアリバイの作れる知識人は、具体的な技法を検討しない。 それは、「理論は過激に、臨床は素朴に」と語る斎藤環も同じ。 知識人が、みずからの当事者性を解離させる知性を推進している。
みずからの当事者性こそが拒絶されている
- 自分のことを「当事者」と名乗る人間は、「私は弱者です」と自己をカテゴリー化すれば、加害責任を逃れられると思っている。 「当事者」というのは、そもそもが紛争用語であるはずなのに、むしろ責任を回避するためのメタ的自己弁護として、「当事者」が名乗られる。 「当事者」と名乗る人間ほど、責任レベルでのみずからの当事者性を無視する。
- 「支援者」と名乗った人間は、「当事者」カテゴリーにある人間にひどいことをされても、泣き寝入りする暗黙のルールがある。 基本的には、「我慢しろ」としか言われない*1。 被害は放置され、黙殺される。 こうした支援業界の事情において、自己愛系やボーダー系の人間は、きわめて狡猾な政治を展開する*2。 政治性の廃棄された現場(参照)を、ボーダー系の政治が支配する。何年もかけて築かれた信頼関係は、たった一人の迷惑行為によっていとも簡単に崩壊する。自分たちの状況を検証する政治的取り組みがないために、カウンターの政治を醸成できない。このことは、支援者側を極端な政治弱者にしてしまう。
- 思想の左右を問わず、「弱者=当事者」支援をしていれば、みずからの当事者性を忘却できると思っている。 「弱者のためにやっている」というナルシシズムが、支援される側のナルシシズムと連携し、差別や暴力が容認される。 紛争ゲームにおいて一度設定された役割は、その後は分析されない。 「役割」が、お互いのナルシシズムのアリバイになっている。
- 天皇制は、当事者性の分配装置だろうか。
- 社会性とは、「我慢すること」だと思われている。自分の経験を対象化する自己検証(自己の当事者化)は、むしろ「社会性のなさ」と思われる。周囲がごまかしを生きている時には、ていねいな自己検証を始めた人間こそが異常者として排除される。私は、分析をあきらめ、自分を周囲に埋め込むことを要求される*3。 ▼埋め込みの作法として、いくつかのパターンがあり、それによって所属できる共同体がちがう。