権力の内在的分析という、“臨床的” 課題

ジャン・ウリガタリが、教育や精神療法に関して「制度分析」と言っているのは、「権力の分析」であり、その分析を内在的に行うということだ。 ここに日本語での、「当事者」という文脈が関係する。 「当事者発言」は、権力の内在的分析にあたる*1
生活のミクロな場面にも権力は機能している、というフーコーの問題設定に、「そんなの当たり前だろうが」とバカにした人がいたが、権力分析は紛うかたなく “臨床的な” 課題だ。 分析されないままの権力の作動は、どうしようもなく人の心身をズタズタにする。 理不尽なトラブルを続発させる。





*1:弱者の不当な特権化でしかない「当事者発言」は、ナルシシズムの強化でしかない。 このナルシシズムが強化し合うところに、当事者共同体の暴力の場が醸成される。

結果と過程

制度を使った精神療法」の中心人物ジャン・ウリの講演、「表現活動とラ・ボルド病院」(2005年8月6日@東京医科大学臨床講堂)*1より(強調は引用者):

 私は、アール・ブリュットに非常に興味を持った人として有名な、画家のデュビュッフェと1948年に会いまして、それ以降関係を常に持っていたわけですけれども、それでもアール・ブリュットが素晴らしいと私は書いたことはないのです。
 1950年に私は “La conation esthétique” 「美的努力」*2という博士論文を書いたのですが、実はそこで書いたことは、アール・ブリュットの考え方は、あまりにも単純すぎる、あまりにもナイーブすぎる、素朴すぎるという批判だったのであります。 (略)
 レクリエーションという概念、創造という概念ですけれども、それは精神医学の総体にかかわることなのであります。 すなわちそれは、対象を固定化して物質化してしまうということに陥らない観点をもつということであります。 公のロジック、国が持っているようなロジックよりも、皆さん方は複雑なロジックを持たねばなりません。
 それをここで「詩的なロジック」と呼んでみたいと思います。 『見えるものと見えないもの』という思想書を出版したモーリス・メルロ=ポンティという現象学者がフランスにおります。 彼が言った言葉で、野生的な本質(Wesen)という言葉がありますが、未だ分化されていない状態で本質的なもののことを、メルロ=ポンティはこの言葉で描いているわけであります。
 そこで問題にされているのは、人が何を言ったという内容ではなくて、人が言うに至った内容を可能にしたものであります。 その背景にあって言うことを可能にしたものは何なのかということを問題にしているわけであります。 (p.44)



結果としての内容や作品をいきなり分析してどうこうではなく、それを作り出す《プロセス》が問題になっている。 表象分析ではなく、「表象を固定化してしまうもの」を避ける努力がある。――私はここに、ひきこもりに特有の「再帰性」・「実体化」への取り組みのヒントを見ている(ヒントというか、それそのものだと思うのだが)。
結果的な表象を分析するのではなく、表象を可能にするものを柔軟に、自由にすること。 いきなり既存制度への順応を目指すだけでは、ここのモチーフは吹き飛んでしまう。

 現象学において、意識の対象面のノエマ、意識の作動面のノエシスというものがあります。 さらにメタ・ノエティックな活動、ノエシス的活動のメタのレベルにある活動、そこに着目していただきたいと思います。 (p.44)



何かを意識の対象にして、それを構成する作動面を「ノエシス」と呼ぶだけでなく、構成する活動自体を検討と関与の対象にすること(そこで関与の手続きとして、制度分析*3が必要になる)。 対象(ノエマ)としてのその場や自己は、ある一定の役割パターン*4で機能しており、ノエシス的活動はその機能を「高めよう」と奮闘している。 作動形態(制度)が決まっており、その固定に権力がある。
社会に「順応せよ」という方向しかないなら、自分も、その自分に対象化される人や物も、再生産のパターンで硬直してしまう。 そこで、「自分や他者を役割として固定する」あり方を検証し、リアルタイムに組み直す。 それは内発的な必要に導かれた労働過程であり、創造の要因を帯びる*5
生きてあるプロセスが、柔軟さと内発性をつねに試みるのでなければ、生き延びようとすることは、強迫的な順応か、やっつけ仕事でしかなくなる。 単なる石や動物には戻れない。





*1:日本芸術療法学会 《芸術療法研セミナー2005》 アドバンスコース。 『日本芸術療法学会誌』vol.36 no1, 2(2007年3月、p.39-45)掲載。

*2:【原文の註】: conation とは心理学的には意欲感の意味であるが、ここではウリ先生の論文の内容からして、ラテン語の conation の訳語の内からふさわしいものを選んだ

*3:自分たちのいる「場所の分析」である制度分析は、「権力の内在的分析」とも言い替えられるだろう。

*4:「カウンセラー」「教師」「当事者」など

*5:私はそもそも、いま取り組んでいるこの作業に没頭するべきだろうか。

市場と過程

ジャン・ウリの講演「表現活動とラ・ボルド病院」より(強調は引用者):

 マルクスが「商品」という問題を深く考察しましたけれども、そのような商品として表現を売り買いする、値段をつける、そのようなことがあっていいのかどうか。これは私は言い過ぎではないと思いますけれども、それは作品というよりつくった人を売っているということにすらなるのではないかと思っています。
 ですので、作品を売り買いするということについて、私は違和感を持つわけであります。そもそも創造することは、何度も再生産されうるようなものではないからであります。 (『日本芸術療法学会誌』vol.36 no1, 2、p.44)



日本語の文脈で言えば、労働力商品も含めた「商品市場」と、「やりたいこと」との葛藤が関係すると思う。


治療として、何かに取り組む創造過程を大事にしたとして、その結果は売り物になるとは限らない*1。 逆に言うと、創造過程を問題にしない順応主義の《成果》こそが、「売り物」として流通しやすい(労働力商品としても)。
臨床的-政治的過程として「創造」を問題にすることと、その成果が他者から欲望される物になるかどうかは、別の課題になる。 また、「これは統合失調症患者の作った作品です」と銘打って商品化するのは、何を商品化していることになるのか(その商品化の制度は、何を固定化しているのか)*2


“健常な” 人が、作品価値を高めるために “異常” を装うかもしれない。――これはひきこもりでは、「役割理論」の話になる。 病気でもない人が、「ひきこもっていた」というだけで特別扱いされるべきなのか。 その発言内容は、ほかの人と比べて特別な価値を持つのか*3


狂気やひきこもりで焦点化されるモチーフが、“健常な” 人たちを逆照射する(分析的に論点化する)。 そういう取り組みを臨床上必須の内在的契機と考えなければ、ひきこもる人は単に脱落者であり、社会復帰には「疑問なき順応主義」しか待っていない*4。 私はそこでこそ抵抗している。――この表明がサルトル的な実存主義とは違うところに、「制度を使った精神療法」のキモがある。 主観的なものの柔軟かつ分析的な構成が、単なる実存主義や政治ごっこではなく、臨床上の最も重要な契機であること。
「疑問なき順応主義」は、ひきこもる主観の硬直メカニズムをまったく考えていない。 生きてしまう亀裂(ニヒリズム)を、積極的に生きる姿勢がない。 どうしても湧いてしまう疑問をねじ伏せるしかないなら、意識はまた虚無感に硬直する。


ひきこもる人を特別扱いするかどうかではなく、個々の状況を一つ一つ検討できるかどうか。 その分析労働がつねに新しく生き直されるのでなければ、メタ的理論内容を押し付けても何の意味もない。 「内容」が正しくとも、臨床上の課題を裏切っている。――そのことに、当事者側の順応ナルシシズムが加担したりする。



*1:ここではむしろ「売り物にするべきではない」という話になっている。

*2:逆に言えば、制度分析がつねに機能していれば、何かが商品化されることを怖がる必要はないはずだ。 ▼教条的な左翼イデオロギーの「資本主義批判」と、「制度分析(権力関係の内在的分析)」との、小さく見えて決定的な差異を見逃しては、ここの話はまったく分からなくなってしまう。

*3:いわゆる「当事者発言」は、アール・ブリュットとしての価値を持つのか。

*4:ひきこもりを「全肯定」する左翼教条主義は、それ自体が「疑問なき順応」を要求している(参照)。