「アリバイ」と「泣き寝入り」――社会生活では、この2つが問題になっている。

ひきこもっている人には、アリバイがない(24時間オン)。 「働いている人」に制御不能の畏敬(恐怖)の念をもつ。 一方で、アリバイを作る人を「欺瞞だ」と見ている(太宰治的なもの)。


先日メモに書き付けた言葉:「どいつもこいつも、アリバイ作りを生きている。誰も分析を考えない」。 社会生活を成り立たせるとは、アリバイを成り立たせて見せることだ。 自意識とはアリバイ強迫。 ▼「すべて話してしまう」*1のは、むしろアリバイ確保に見える*2


ゲームをする(アイテムを取る・点数を稼ぐ)ことは、アリバイ作り。 鍵を手に入れること。 「受容の理由」にありつくこと。 ▼自分の状態への正当化は、心理だけでなく、関係や社会において成り立つ。 目の前のゲームは、歴史的ないきさつを持つ。
正義(ロールズ)を論じることは、すぐれて「アリバイ作り」になる*3。 アリバイ作りしか考えない自意識(ゲーム的ナルシシズム)は、関係の分析や組み替えをしない。最初に設定されたルールで、「成功すること」しか考えない。ナンパ師の発想。


存在のアリバイ・ゲーム。 労働は、アリバイ。 お金は、解除の鍵。


生まれてきた個人として、何をどうすれば決済したことになるのか*4。 「お金さえ払えばいいことにしておいてくれ」は、当事者性の忌避。 共同体的な責任を免除されること。 責任の近代的な、そしてポストモダン的なあり方。 ドゥルーズ=ガタリが副題を「資本主義と分裂症(capitalisme et schizophrénie)」にしたこと。 ポストモダンにおける思春期と、思春期のポストモダン性(斎藤環*5。 ▼ジャン・ウリガタリらの「制度を使った精神療法」が、統合失調症の人が耐えられるように場の分析や改編をする政治的臨床であること(三脇康生*6。 アリバイ作りをモダン的に順応主義のみで考えるのではなく、制度順応自体を分析と組み直しにおいて考えること。 そこでは、アリバイが組み直され、泣き寝入りが組み直される。 アリバイと泣き寝入りの双方が、硬直してはまずい。


「自分はアリバイゲームをしていない」という自意識は、それ自体がアリバイになってしまう。それがひきこもりの再帰性。 「アリバイゲームをしていないぞ」というアリバイに淫すること。 ベタにアリバイゲームを始めると、専門性に淫してしまう(順応への嗜癖*7


アリバイ作りで成り立つ社会において、いつの間にか「我慢する側」に回っている。他人のアリバイのために煮え湯を飲まされること。それでトラブルを回避してきた。 きちんと交渉しなければ駄目だ。  ひきこもることは、自分が他人に言うべきことを言えないために、家族に煮え湯を飲ませることになってしまう。 「泣き寝入り」以外の生き方ができないこと。


「とにかく順応しろ」というのは、アリバイのナルシシズムに淫しろという命令。 定型的なアリバイは、何かを泣き寝入りさせている。 調達すべきアリバイを間違い、誤魔化してはいけないポイントを取り違えている。 ▼アリバイ調達を無視することは、メタに居直る傲慢だし、かえって周囲に迷惑をかける。そもそも社会生活にならない。しかし、アリバイを固定するのは変(それはまた超然と居直ることだ)*8。 また、アリバイを堅持するために泣き寝入りを固着させてもいけない。 誤魔化しのアリバイと泣き寝入りは、本人自身においてもセットになっている。


メタに居直るだけのアカデミズムや、全体性の自意識に淫するエリート論は、自分のかこつアリバイの細部を見ない。それは、ひきこもって身動きできない自意識と似通う。自分の足元で、アリバイと泣き寝入りの関係を検証していない。――私のアリバイは、誰かに迷惑をかけている。私の泣き寝入りは、誰かに不当な自己満足を与えている。いずれも調整せねばならない。







*1:統合失調症では「秘密を持てない」というが、病気ではない「ひきこもり」とのメンタリティの類似が気になる。

*2:ひきこもりは、アリバイ戦術におけるお馬鹿さんとして現れる。 【参照:「戦術計算におけるバカ」】

*3:女性、障害、部落、生命倫理、云々。 そこでなされる「当事者」論は、往々にしてそれ自体が差別的だ(参照)。

*4:【参照】:拙論「ひきこもりにとっての、別種の決済システムの重要性」(『ひきこもり文化論』p.169-175掲載)

*5:思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)』「あとがき」より。 ▼同書で斎藤環は、「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」を、ガタリの主張が生み出した実践であるかのように書いているが(p.227)、これは端的に間違っている。ガタリは制度論をトスケル(François Tosquelles)やジャン・ウリから受け継ぎ、そのエッセンスを病院外の社会運動に持ち出した(あるいはドゥルーズに伝えた)。

*6:精神の管理社会をどう超えるか?―制度論的精神療法の現場から』掲載「精神医療の再政治化のために」、あるいは会話での三脇氏からのご教示。

*7:【参照:「“専門性”の踏襲と、分析の維持」】

*8:ラカン派の理論と技法にはこれを感じる。 ジジェクは、ラカン派の分析家を『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターになぞらえていた(『汝の症候を楽しめ』)。

schizophrenia――危機の臨床

ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は副題を「Capitalisme et schizophrénie」といい、2006年に出た新訳でも「資本主義と分裂症」と訳されているが、「schizophrénie(schizophrenia)」は2002年以降、「統合失調症」と呼び名が変わっている(参照)。
「分裂症」の語をあえて採用した理由を、訳者の宇野邦一は次のように記している。

 近年、日本の医学界は、〈分裂症〉に替えて〈統合失調症〉という名称を採用するようになったが、この本は〈分裂症〉をいかに肯定的な「過程」として理解するかを本質的な課題としている。〈統合失調症〉という、それ自体あらかじめ否定性を含んだ命名によっては、この本の主旨をよく表現することができないと考える。
 (『アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)』p.394)



ジジェクは、ドゥルーズ=ガタリが「schizophrenia」を賞賛しているのではないかと批判している。

 今日の資本主義は――これは思ったほどばかばかしい見解ではないように思えますが――、臨床的な意味においてですら、文字通り私たちを狂気に駆り立てているという意味で、心的限界となっているとまで考える社会心理学者も何人かいるのです。
   ――(質問者)これは一種捻れたかたちのドゥルーズガタリなのでしょうか。
 実質的にはドゥルーズガタリの反対だと言ってよいでしょう。なぜなら彼らには資本主義の分裂症、悪いパラノイアという観念があり、それが良い革命的な分裂症へ爆発すると考えているからです。しかし、思うにドゥルーズガタリは、狂気を、ある種の疑似−精神医学的に称賛することに危険なまでに近づいているのではないでしょうか。狂気とは人々が苦しむひどく恐ろしいものであり、そしていつも思うのですが、狂気のなかに解放的次元を試したり、見出したりするのは間違っているのです。いずれにせよ、社会心理学者が言及している限界は、それよりずっとわかりやすいものです。例えば、アメリカの概算によれば、少なくとも70%の研究者や教授がプロザック、その他の向精神薬のたぐいを服用しているのだそうです。これはもはや例外ではありません。文字通り、働くために私たちはかねてから精神薬剤を必要としているのです。ですからこれが限界なのです。つまり私たちは単純に気違いになり始めているのでしょう。
 (『ジジェク自身によるジジェク』pp.212-213)



三脇康生がこのジジェクに反論している。 以下、「ジャン・ウリドゥルーズ=ガタリの比較を行ないながら、ラボルド病院の病院環境を巡る思想について考える」*1より(引用にあたり、略された人名等をわずかに付け足した)

 内海健統合失調症の患者から求めるべきは精神分析家が考えるような転移 transfert ではなく「信頼」であるとしている。

 惚れ込みとは我々神経症者の生が枯渇しないために必要な妄動である。分析治療の枠組みのなかでは、転移という特異な現れ方をする、恋愛に限らず、それは世界を色づかせ、われわれを行動へと駆り立てる。こうした観点からみれば、惚れ込むことのない統合失調症者の世界は、平板で無味乾燥なものに映るだろう。……しかし関係性とは、転移の系に限られるのだろうか。むしろこうした限定が、統合失調症に対して精神療法の可能性を閉ざす元凶になってきたのではないだろうか。彼らは決して妄動しない。またむやみに人を魅きつけることもしない。とはいえ、いかなる関係も持ちえないのではない。ここで「彼らにはもう一つの関係を造る能力があるのだ」という Balint(1968)*2の言葉を思い起こすべきである。……この関係性は、「惚れ込み」のような怪しげなものではなく、端的に言うなら「信頼」である。
 (内海健統合失調症の精神療法可能性について」、『精神療法』 Vol.31 No.1「統合失調症の精神療法」、10−11項)

(中略) ジャン・ウリはこの内海の論とは反対に、「信頼」という言葉のかわりにまさに転移という言葉を使う。内海=中安のような医者から患者へのすばらしく倫理的なかかわりがあったとしても、それが治療の前提であると認めることにやぶさかではないにしても、週一回の外来診療ではなく長期の入院ともなれば、その医者のいる病院の雰囲気、スタッフの関係性が大きく患者に影響を与え始めるだろう。



「病院の雰囲気、スタッフの関係性」までもが《制度》として論点化され、みずからを含むその環境への分析と組み直しが臨床に活かされる。――ここで三脇が内海を批判しながら論じている「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」は、ひきこもり支援に「応用される」のではなく、それ自体が内在的にひきこもり臨床の形をしている。そこでは、理論と臨床は(斎藤環のように)分けられるのではなく、具体的に理解して分析することが、そのまま臨床行為になっている。 「心理」を分析するのではなく、すでに生きている制度(関係や心の態勢)を分析する――そういう意味での「場の自己分析」が、「制度分析」と呼ばれる。 心と関係性は分離されないし、メタなアリバイで逃げることもできない。関係も態勢もすでに生きられている。具体的な関係のなかにいる以上、制度分析は全員で問題になる。その意味で、弱者だけでなく全員に当事者性がある。


以下、三脇康生の同論考(p.147)より。(ここでの注は引用者による)
統合失調症についての議論だが、ひきこもり支援にとっても示唆的。
超自我」については、「支配的な制度」と理解できないか。ここでは、その場その場での権威性(課せられた去勢恐怖)の組み直しが問題になっている。 ひきこもる人は、むしろ過剰な去勢恐怖に萎縮している*3

 統合失調症の患者の転移を治療に用いることを否定する(内海健の)論では、超自我は社会に一つしかないかのように語られている。病院も社会の一部だからそれでもよいのかもしれない。転移を治療に用いたといえば、治療共同体の運営がそうかもしれないが、内海はこのような共同体のあいまいなありかた(がゆえに患者を「共同体」に飼い殺しにし、今度は社会復帰ブームに乗ってSSTsocial skills training)のプログラムの重要性を繰り返し喧伝するだけの左派たち)に怒りを持って、(研修医らを含む若手の医師の)啓蒙に力を入れ始めているのかもしれない。
 いずれにしても神経症圏内の転移をそのまま統合失調症の治療の際も禁忌として内海は呼び出している。しかしウリは患者のいる場の超自我を、社会で流通しているものとは変質させようとしているところがある。そうでなければ患者は居場所を持たない。もちろん、それは患者の囲い込みに繋がるというラボルド病院批判も存在している。しかしそれに対して、ウリは来日した際に*4、「患者はラボルド病院を中心にしてゆっくり社会には出ていくのだ」と主張していた。もちろん、社会の超自我を解体してしまうつもりはウリにはない。

 場において超自我アドホックに構築すること。これがウリの戦略であり、ウリにとっては、場が重要だった。それが病院でも学校でもエッセンスであった*5。 資本主義とある程度の折り合いをつけながら、その場の超自我を再構成する。すると想像界で生じる出来事が幅を利かしはじめる。しかしそこで生じることを享楽jouissanceのレベルにとどめないようにしなければならない。 そうしないための仕組みをラボルドに作り出そうとするのである。 それがラボルドに存在するクラブやアトリエの機能である。



統合失調症は、病いの問題として「自己の成立」が難しくなっている。 ひきこもりにおいては、病気とは別のかたちで「自己の成立」が難しくなっており、それが再帰性や自己の実体化に落ち込んでいる*6
斎藤環のように、ひきこもっている人を「そーっと」大事にするだけでは、「戦場」という比喩で語られる実社会との連続性が扱えない(参照)。 ひきこもり臨床そのものを《交渉》の一元論で捉え、「個人の政治化」の為される政治的現場として捉えるべきだと思う。 自己の成立とその弱体化を、政治的に――つまり、アリバイや泣き寝入りの場で起こっている事態として――捉えること。 支援・臨床の場を《政治化=交渉化》し、そのための分析と関係の組み替えを行なうこと。 臨床の取り組み自身が、間違ったアリバイや泣き寝入りにならないように。





*1:掲載は、平成15-17年度 科学研究費補助金(基盤研究(B)(2)) 研究成果報告書 『病院環境をめぐる思想――フランス精神医学制度の歴史と現状から見えてくるもの』(研究代表者:多賀茂) pp.139-157 ▼この引用箇所とほぼ同趣旨の文章が、雑誌『思想』2007年6月号 三脇康生精神科医ジャン・ウリの仕事――制度分析とは何か」で読める。

*2:The Basic Fault: Therapeutic Aspects of Regression』。 邦訳は バリント『治療論から見た退行――基底欠損の精神分析』、中井久夫訳、金剛出版、1978(絶版)。

*3:それが「発達障害」に見える可能性が気になる。

*4:ジャン・ウリは2005年に来日している。 【参照1】、【参照2】、【参照3

*5:制度を使った精神療法」とまったく同じ趣旨を持った、「制度を使った教育学(pédagogie institutionnelle)」の運動もある。こちらは、ジャン・ウリの兄であるフェルナン・ウリ(Fernand Oury)が唱導者。 ▼同教育学に取り組むジャック・パン氏が2006年に来日した際、私はひきこもりについて質問した(講演レポート)。

*6:参照1】、【参照2】、【参照3】、【参照4