「価値ある現実」と子どもの絵

先日の芸術の話について、読者の方からいただいたメールより*1

 現代芸術に共通するものがあるからということで、子どもの絵を「芸術」として見る人たちもいます。でも、子どもの絵に関しては、発達の目的は芸術ではなく、現実を捉えることとか、成熟した大人になること等にあると思います。



発達すべき前段階にあって、見るべき現実を見られていない未熟さや弛緩でしかない「子どもの絵」と、むしろ芸術の最高段階にあって「これこそが見るべき現実を見られている」と見なされる《現代芸術》と。
幼児性にこそ故郷があるのではなくて、見るべき現実はまだこれから気付かれ構成されるべきである――とはいえ、見る価値のある現実など残されているのか。 小難しい議論をしても、価値ある現実などもたらすことができるのか。


「現実を見る」という行為は、あるいは「現実」という理解そのものが、一定の歴史的な仕方で《構成されたもの》である――というのが、一部の人たちの理論的な考え方なんだと思う。(そのように語る自分自身が一定の仕方で構成されている)

【追記】

気になっているのは、不登校ひきこもりの支援業界が、いわば「子どもの絵」を無条件に神秘化して礼賛するような、ロマン主義の状態にあること。泣き叫ぶ不登校の子どもこそが、より根源的で生き生きとした「ほんとうの状態」に近いのだ、というような*2。 ▼そういう「根源的な」ことを、神秘化やロマン主義とは別の仕方で慎重に取り扱う必要がある。私が制度論を参照するのは、そういう文脈でのことだ。





*1:私のレスポンスは、いただいたメールの趣旨とは違うかもしれません。

*2:そのとき《当事者》は、必然的に「子ども」「若者」のイメージになり、高年齢化した者は疎外される。 これはたいへんな抑圧だ。 【参照:「不登校中心主義」】

折衝と制度

充たされざる者(カズオ・イシグロ著)」(梅田望夫による書評)より:

 私たちは皆、自分の生を生きることに精一杯だ。それだけで自分の時間の大半は過ぎ去っていく。その合間を縫って多くの他者と関わるのが生きることだが、他者の人生に深く関わろうとすれば、他者一人につき、それだけでほぼ無限の時間が必要になる。私たちは同時に複数の場所に存在することはできない。他者からの要請に費やす時間のプライオリティづけがぐずぐずになったとき、私たちの生はいったいどんなものになるのか。それが「充たされざる者」に流れる時間だ。しかしそれは、悪夢の中だけのことなのだろうか。

優先順位をつけるのが下手な人間が、家族に対して、自分を最優先にするのを要求する。結果としてそうなっている――ひきこもりというのは。(最優先に扱うことが、家族の側のアリバイになっているかもしれない。最優先に扱っているのだから、家族や自分の現状を反省的に考えなくてもよいのだ、というような。)

 いくら近しい関係にあっても、他者を私たちは十全に理解することはできない。すべての人は全く違う記憶と、全く違うプライオリティを持って生きている。

優先順位を、ミクロやマクロで折衝すること。
人生の残された時間は、それですぐに終わってしまう。