否認の連帯

本人が、自分で自分のリアリティを扱えなくなっている*1
社会契約という観点から言えば、交渉主体としては対等だから、「当事者なんぞ知るか」というのは当然。このレベルでは、語り手の属性は何でもいい。わざわざ特別に考える必要があるのは、社会的に規定された語りのポジションの非対称性(参照)。


自分で自分のリアリティを扱うのは、精神分析の面接技法を社会的場面に持ち出したようなもの。左翼活動家は、(社会正義という)意識レベルのアリバイをクライアントの口実として共有してしまうから駄目。否認的アリバイの共有をしているだけ。社会参加の継続と、逃避の継続が同じ形をしている。

    • 「自分は○○問題に取り組んでいるから、それで社会正義の口実がある。だから自分の内的葛藤や社会的責任については、もう分析的に考えなくていいんだ」――これは最悪の逃避。自分の差別性や暴力には無頓着であり得る。▼そうしたものは、分析的な当事者発言の対極にある。自分の心臓をえぐっていない*2



たとえば被差別部落の当事者性は社会的なものだから、「本人の内的葛藤」などを話題化しても当事者性には関係がない。しかし逆に摂食障害やひきこもりでは、内的葛藤が当事者性を構成するから*3、社会正義に取り組むだけですべてが解決するかのように語るのは、内的葛藤と外的現実の関係を見ないで済ます逃避にすぎない。▼単なる治療主義で自分だけを攻撃しても、単なる社会正義で制度だけを攻撃してもダメ。内的葛藤と社会的現実の「関係」を分析的に、また制度改編的に見据える必要がある*4
社会正義だけで自分の正当性を担保したがる逃避に、他者の社会的現実に関わることで自分の社会的アリバイを作りたがる左翼が群がる危惧がある(参照)。 「自分自身の当事者性」を話題化されることを恐れる左翼が、大文字の社会正義と他者の苦痛を話題にしてアリバイを確保する。――逃げる人間同士の否認の連帯が成り立ってしまう。


たとえば、被差別者を支援しているからといって、その人間に差別意識がないとは限らない。本人が、自分自身の差別意識を問題にする必要があるのに、「私は差別問題に取り組んでいるから、差別意識なんかないんだ」と逃げることがある*5





*1:「イマジネールな勘違い」という意味では、歴史上扱えたためしはない。解離的にますます扱えなくなっている。抑圧のスタイルが変わっている。

*2:逆にいえば、「心臓をえぐっているから無条件に正しい」ということでもないが。

*3:社会的要因が関係ないというのではないし、差別の対象にもなっている。しかし、同じ社会的条件下であっても摂食障害やひきこもりに陥らないケースがほとんどであり、葛藤の構造を「わかりやすい社会正義の構図」に還元することはできない。▼内的葛藤と社会的現実の関係を問題化することは、単に「本人のせい」にすることではない。むしろ問題になっているのは、取り組みのとっかかり、その倫理的方針だ。

*4:制度改編的な要因を見ない斎藤学を読んでいると(参照)、かえってしんどくなってくる・・・。

*5:私を最悪に差別的に見下した人間の一人は、他人の被差別問題に取り組んでいた。

アリバイと自己分析

マジョリティ側の社会生活には、無自覚的なアリバイが詰まっている。
属性レベルで弱者のそばに近寄ること*1は、それ自体がアリバイ作りでしかない場合がある。つまり、ある種の当事者性にすり寄るように迎合すること。それは、自分の当事者性を黙殺して、誰かの当事者性によって自分の正当性を担保することであり得る(そのようなものとして、実際に弱者の役に立つ)。


支援対象や自分自身の当事者性を、単なる「アリバイ」にする人が居る(「不安定就労者だから語る資格がある」云々)。 当事者性の標榜は、それ自体が自己分析の拒否であり得る。弱者擁護で自分の正当性を担保する人は、その「自己分析の拒否」を共有する。▼お互いの関係を解体してしまいかねないフェアな自己分析は、そのつど試される必要がある。

    • 貴戸理恵が自分のことを不登校の《経験者》と言わず《当事者》と呼んでいるのは、現状の自分が生きている関係への分析的言及の拒否であり得る。「自分は、とにかくニーズを汲み取られるべき存在だ」ということで、「コドモ扱いされること」を望んでいる。なのに、主張主体としては対等な権限を主張している(参照)。▼貴戸は、不登校については《当事者》ではなく《経験者》と名乗った上で、継続する「当事者性」(社会的な非対称性や内的葛藤)を問題にするべきだ。そうでないと、彼女自身の強者性を分析しないで済ますことになってしまう。単著を持ち、東京大学大学院生である貴戸は、すでに社会的には一定の力を手にしている。それを「不登校当事者」という言葉でごまかすべきではない。「自分で自分を研究する」という分析構図の重要性は、強者となった後にも続く。むしろその構図を維持し伝播するために、自分の強者性を活用すればいい。▼貴戸は自分が東大院生であることを悪いことのように語ることがあるが*2、完全に間違っている。強い立場を手に入れること自体を否定する必要は全くない。要はそれをどう活かすか。



強い立場がなければ、状況に介入的に関わることはできない。多くの左翼は、こんな程度のことすら自分のことについては誤魔化してしまう。強者を叩きつつ、自分の得た権力については分析的に言及することを拒否する(ごまかす)。アルチュセール・シンポで、みずからの教師としての権威性を嫌がった西川長夫氏に大中一彌氏が反論したのも、まさにこの点だった。 「教師としての権威が嫌だといっても、あなたは教師として給料を得ているではないか」(大意)。まったくその通りだと思う。▼これは、相手を教師として差別的に遇することとは全く違っている*3。その場で機能している制度的な権威や権力をいったん認めたうえで、「それをどう活かせるか」を当事者的に検討する必要がある。


関係の一端を担う一個人として、「これはお前の問題なのだ」ということ。その態度を、マジョリティ(脱落を経験しない側)にも要求すること。
「客観的理論」だけでも、「当事者の叫び」だけでもまずい。「理論的に考える」作業に、当事者的な自己分析の契機を内在化させる必要がある。



*1:意図的に生活レベルを落としたり、マイノリティの共同体に参加したり

*2:というより、そのことで不当に叩かれまくっている。不登校の支援者や経験者の一部は、貴戸が東大に居ることを悪く言うことで自分の政治的アリバイを担保することがある。惨めすぎる。

*3:「教師のくせに」「医者のくせに」などと、強者的属性を差別的にあげつらっても何の意味もない。