支援される側か、支援する側か

自分ひとりの当事者性(=不自由)を減じようとするだけなら、単に「支援される側」。卒業できるなら卒業したほうがいい。しかし、個人の努力ではどうにもならない不自由は身に負い続けることになる。
自他の不自由を減じようとするなら、運動の共有がある。ただし、中間集団全体主義に注意。
一方的に他者の不自由を減じようとするところには、支援対象の差別的特権化と、「支援している自分」への硬直的ナルシシズムが忍び込みがち。(支援される側としても、その支援者のナルシシズムに乗っかる形で、自分の存在を差別的に特権化する自我肥大があり得る。)





「不自由の条件」

引き受けざるを得ないと思っている「条件としての不自由」の違いが、思想や立場の違いになる。
不自由は、単に制度的条件だけではない。本人の生きざるを得ない〈症候〉も、抜け出そうと思っても抜け出せない。
元気な人は、恵まれた条件をいつの間にか享受している。自由は、それを享受できる人にとってはうれしいことでも、その自由を得られず苦しんでいる側にとっては、不自由の条件をいっしょに考察する努力の拒否でしかない。逆に言えば、だからこそ元気な人は好きに動ける。
本人が意識しないままにクリアできている不自由の内実が違うために、話が合わない。