交渉能力の周辺

ひきこもりを、「交渉能力の低さ」と一元的に整理して考えるようになった。だとすれば、この問題をめぐる力関係を分析し、その関係を公正に調整しつつ、自分自身は何よりも交渉能力を高めるしかないのだと思う。支援される個人としても、支援する*1個人としても。
よく、「自分自身が劣悪な生活環境に“身を落とす”ことで自らの潔さを示す」話を聞くが、自己満足とナルシシズムでしかない。状況を変えるためには、支援者としての自分自身が力をつけなければならない。制度を変えることでしか取り組めない支援を考えるなら、制度設計に回るしかない。
私たちは、どんな関係を「生きざるを得なく」なっているか*2。 生き延びるために制度に順応しつつも、その制度を抉り出すこと、改変すること。
環境のロジックを放置したまま、ただ利害を共有するだけの「共生」は、他者を自分の制度に巻き込もうとしているだけ
順応主義は、脱落者を異常化=孤立化して「復帰」をせっつく*3。 力関係への分析はない。
派閥主義は、カテゴリー化した他者攻撃を共有しようとする。「べき論」のヘゲモニー争い*4イデオロギー先導型であり、倫理はない。権力的に振る舞うプログラムがあるだけ。それでナルシシズムを維持している人間は、自分の立っている場所、その立ち方を批判的に検討する作業はしない。「100%の正義の味方」は、自分の権力を分析しない。弱者に対して当事者的な分析を要求しながら、自分自身の足下は分析しない。





*1:支援に必要な事業は、対人サービスだけではないはずだ。

*2:この世界の関係を単に抜け出せるなら、こんなに楽なことはない。降りる自由を最大限標榜しても、降りられないこの世の関係がある(肉体はこの世の関係に巻き込まれてある)。 降りる自由は最大限保障されるべきだとして(極北は自殺か)、それでも残る「責任の唯物論のようなもの。いや、責任というのは変なのか。

*3:ただし、サバイバルを考える以上はどうしても必要な作業の一環。

*4:派閥の標榜者本人は、環境に制度順応しているだけだったりする。

弱者であることと権力の行使

当事者であるという言い方に、(1)「支援されるべき弱者である」という意味と、(2)「紛争や力関係の責任を負っている」という意味の両方があって、弱者支援の文脈では前者ばかりが強調されるが、実は支援される側についても、後者を考える必要がある。
自分の弱者性を強調することは、自分との関係に巻き込まれた相手に、降りる自由を禁じてしまう。この「禁じる」ことに権力があって、そこで責任や正当性が問われる。(ひきこもることは、親密圏のメンバーに「降りる」ことを禁じてしまう。)
弱者であるという意味での当事者性は、本人が降りようと思っても降りられない。すぐにでも降りられるならそれは不当な弱者性の強調であり、他者を不当に威圧することでしかない。(弱者性=当事者性を関係の中で捉えず、実体化すれば、不当な特権化がはじまる。不当な威圧にすらなり得る。)
弱者性の強調には、権力の行使が期待されている。権力を期待できないところで弱者性を強調すれば、単に無視されて「されるがまま」になる。