機能的な必要としての「現実の構成」

東浩紀氏によれば、規律訓練型から環境管理型に向かう社会において、社会生活は動物化している。
情報社会の思想」より

 情報技術は人間を
 動物的には
 幸せにするが人間的にはあやしい (中略)
 快を増やすが
 自由や世界性の感覚を奪う



「とにかく人間的にならねばならない」というナルシシズムはおかしいが、現状としてどのような苦痛があるかは検討されるべき。 ひきこもりに関連しては、「自分の現実をうまく構成できない」という苦しみが問題になる。


動物的な快でやり過ごすこともできないし、周囲の目線を無視することもできない。 「意識的な生活」の必要が残る以上、自分のいる場所で自分の現実を構成しなおす必要があるのだが(「そうするべきだ」という規範ではなく機能的な必要)、それがうまくいかない。 ▼一人でいても苦痛だが、社会生活の緊張関係に巻き込まれるとさらにどうしようもなくなる。(緊張関係を伴わない社会生活はない)


ここでいう「現実の構成」は、主観的には「欲望の構成」に近づく。 自分の現実=欲望をうまく構成できない人間が大量に出現している。 「父性」や規律訓練を押し付けても、現実はうまく構成できない。


政治力とは、内的事情と外的事情がともに絡んで、「現実を構成する力」といえる。





TBSラジオ『Life』「大人になるということ(Part3)」

9分30秒〜、柳瀬博一氏の発言以降の大意:

 昔は、大人になるということは「頑固でもう変化しない」、逆に言うと「もう変化しなくても大丈夫」ということだったが、今は大人になれと言われつつ、「変化し続ける」ことも同時に要求される。 非常にキツイ。

「どのように現実を構成するべきなのか」は、昔は伝来の定型があって迷う必要もなかったのだろうか。 今は膨大な可能性の中からひとつの態度を選ばなければならず*1、かつひとつを選んでも安住できない。


ひきこもっている人の多くが「理屈っぽい」のは、現実を構成できない苦痛への必死の対処に見える。 ▼自分の状況は、けっきょくは偶然的なものでしかない。 でもそんな偶然は耐えられないので、必死に必然性を導入しようとする。 必然性を導入せずとも生きられるのが動物。


過剰に流動的な状況の中、現実を構成する力が弱体化していて、だから「納得」を構成することもできない。 構成できないままアワアワと流されている
現実構成と「納得」の関係は、宗教や芸術の問題でもあると思う。 残された時間は無駄な苦痛かもしれない。





「自分の現実を構成できない」 メモいくつか

  • 誰であれ、何らかの形で納得を形作って生きるとき、いつの間にかそこで現実を構成している。 「難しい理論を知っているから理論家」なのではなくて、誰でもすでに「小さな理論家」として生きてしまっている。


  • 「現実は社会的に構成される*1」として、その現実の主観的構成について脆弱な成り立ちしかできない者は、苦痛の実存そのものとなり、みずからが「構成されるべき問題」になる。


  • 私が現実を構成する必要があるとしたら、みずからの内的な苦痛や欲望とともに、その私の存在にかかわる具体的な他者との関係による。 それが交渉関係として問題化される。 ▼「現実が構成されない」という事実は、社会的には交渉関係から(遡及的に)問題化する。 あまりに脆弱な実存は、交渉関係を維持できない。 周囲が圧倒的に欲望を生きているときに、本人だけが欲望を構成できない*2。 欲望を構成しても、「周囲の迷惑になるように思える」。


  • 生きることを選択している時点で迷惑になっている。 死んでも迷惑になる。 意識的に何かを構成しようとしても破綻する。 むしろ、自分が抑圧している理不尽感を、無意識的に構成されてしまう創作者として問題にすること。(意識よりも本質的な「構成者」としてのフロイト的無意識*3


  • 内発的な構成のできない人間は、なし崩しに生かされて、なし崩しに死ぬ。 「生きることも死ぬこともできない人間については、どうすればいいのでしょう」(いつか読んだ本のセリフ)


  • 無力感がさまざまなアレルギー的リアクションを生んでいるが、「思い込み」で構成のナルシシズムを担保しようとしても、暴力でしかない。


  • 現実をうまく構成できるようになってくると、「生き延びたほうがいい」云々と欲望が構成されてくる。 するとそれに伴う状況も見えてくるのだが、そこで慌てても「手遅れ」に見える*4。 厄介なのは、「すぐに現実を構成しないとまずいから早くしろ」と急き立てても無理だということ(むしろ逆効果)。


  • 現実を構成できた側とできない側とでは、おそらく「信仰の有無」と同じレベルで話が合わない。 実定宗教への信仰ではなく、現実構成の有無と差異が現代の信仰論争になる。 ▼信仰と似た機能を持つ「現実構成」は、症候的に弱体化してしまった。 必然性のないところで力づくで回復しようとしても無理。 意識で何かを信じようとしても、症候的に反復される虚無で灰燼に帰する。 強度と納得の回復は、無自覚に選択されたもの(必然性)を通じてしかあり得ない。



*1:cf.社会構成主義

*2:「他者たちの声(=欲望)のさなかで自分の欲望を屹立させる詩学アリストテレス)を知りたい(欲望の詩学)」(2003年10月9日)。 自分を組織することができない苦しみ。

*3:事後的に明らかになる

*4:手遅れにならないようにするのが、社会的な制度整備の問題。