公正と無意識

無意識の奇矯さに執着する人は、しかし社会的な正しさが問題になると凡庸な正論を言うことがある。 夢の話に夢中になったあとで、「でもひきこもりは最低」。
逆に、社会的な公正さを徹底する人は、無意識という独特の自己解体のロジックを問題にしてくれるだろうか。





強迫的な空虚

意識のかこつアリバイに耐えられない。
そのことは、震災時の《享楽》と関わる*1
痛みが関係を立ち上げるべきなのに、日常が痛みを抑圧している。
日常というナルシシズム。 消費しあいっこのフェティシズムが維持する*2





*1:参照1】 【参照2

*2:ブロガーとしての自意識は、「消費財としてのナルシシズム」であり得る。 受験偏差値のように。

文字化と社会化

症候的に反復される強迫的な空虚は、文字化のオブセッションとかかわる。
前提を文字化せずにいられないために、暗黙の共通了解を破壊してしまい、繰り返し反感を買う。
自分を解体するロジックが違う。 つまり、倫理的な模索のスタイルがちがう。





フィールド

既存の意識化のロジックに支配された場では、私は自分のフィールドを立ち上げることができない*1
自分の努力が維持されない。
社会化のための「約束」のフィールドは、基本的に私を拒否している。


言葉を組織できずからっぽのまま人の間にいるのは、本当に苦しい。







*1:本を読むことに苦痛を感じる大きな理由がこれ。

島宇宙化と、個人の政治的主体化

「こういう場合には、〜〜するべきなのに」という共通了解は、人によって、世代によって、まるで違っている。 後期近代の「島宇宙化」がもたらす帰結の一つは、お互いの礼儀を尽くした作法がお互いを不愉快にするということだと思う。
場面場面で自分を演じ分ける「個人の分割可能化」は、むしろ端的には、「トラブルの多発化」として体験される。 自分を分割させまくる流動性に耐えられなければ、社会的場面から撤退するほかなくなる。


こうした流動性にひたすら順応しようとする方向性は、自分がバラバラになってゆくような空虚感をますます肥大させる。 この反復強迫的な、トラウマ的な空虚は、それに同一化するしかない。 力でねじ伏せようとしても、身体と意識がある限り無理。


意識がバラバラになればなるほど、個人は政治的主体として破綻してゆく。
「症候への同一化」は、個人の政治的主体化の唯一残された指針に思える。