支援対象と契約主体――法と役割理論

「ひきこもり支援活動の結果、被支援者が粗暴なファシズムの信奉者*1になってしまったが、元気にはなった」場合、それは「ひきこもり支援」としては、成功しているファシズムという許し難い思想*2を選択してしまってはいるが、「社会参加」には成功している。 ▼ファシズムを認めるか否か、あるいは個人として付き合いを続けるか否かは、支援ミッションとは別枠の、対等な個人としての選択になる。 「ひきこもり」の話としては、支援ミッションの焦点は、「継続的な社会参加」の成否にある。 【支援枠としてそれ以上関与すれば、「思想操作」になってしまう。】

  • ただし、実際の民事的な契約相手(支払い主体)である親御さんは、そのような顛末を承認するのか、という問題が残る。 支援サービスの何をもって「契約履行」と見做すか*3は、契約当事者である親が決めること。 被支援当事者(本人)が満足しても、契約主体が満足しないことがある。 ▼しつこいようだが、支援サービスの実際の対象である当事者本人は、民事的なサービス契約の主体ではない(親が支払い主体である場合には)。


  • それゆえ、「直接の支援対象である当事者」と、「民事契約の主体であるご家族」との間での約束事(交渉・契約)が、支援者とのサービス契約にとって喫緊になる。 一部の現状では、親子間で同意が成立しないまま、親の要望のみによって支援サービスが開始されることもある。
    • 「社会復帰してくれたこと」だけで「契約は履行された」と見做されればよいが、「ファシストになってしまったこと」を親御さんが認めないのであれば、それは「契約不履行」にあたる。 つまりこの場合、サービス契約としての支援活動は「失敗」にあたる。
    • 本人側からすれば、“支援”を押し付けられた場合には、法的に許されざる侵害行為ということになる。 ▼「同意なき支援」を規制する法律としては、直接的な暴力については刑法第27章「傷害の罪」、刑法220条「逮捕・監禁罪」のほかは、「措置入院」や「侵襲」など、《医療行為》に関連する枠組みしかない。 逆に言えば、「社会的行為を失った存在へのアプローチ」という支援事業が、想定されていない。 【ここらへんは研究課題】


  • しかし、支援を拒否する本人の状態が、ご家族の同意を極端に裏切っている場合には、どう考えればよいだろうか。 「本人は、ご家族の自由意志を暴力的に踏みにじっている」という見方ができる。 【「《病人》であれば仕方ないが、そうでないなら許せない」など。】






*1:思想の文脈では「ファシスト」が問題だが、親御さんとの関係では「セックスワーカー」のほうが問題かもしれない。

*2:それを懐胎すること自体は違法行為ではない。

*3:その線引きは、契約成立時になるだけ厳密にするべき(料金・回数・必須の達成目標など)。 ▼この線引きが曖昧だと、トラブルの元になる。

「「民事不介入」と児童虐待」(『わっかnない』)

日垣隆世間のウソ (新潮新書)』からだという引用より孫引き。

 要するに、警察はつい最近まで家庭内の暴力=傷害犯罪に対し、見て見ぬふりを決め込んできたわけですね。[…]
 前世紀までなぜ家庭内の傷害事件に警察は介入しなかったのでしょうか。
 それは、「民事不介入」という幻の原則を、警察庁も警視庁もマスコミもまったく疑うことなく信じてきたからです。[…]
 民事不介入の原則とは、 (1)みかじめ(紛争の調停をヤクザに任せる慣習)と、 (2)家父長に警察機能を代行させていたことを内実としています。
 この原則は確かに、戦前の絶対家父長制のもとでは生きていました。 家父長には勘当権、処罰権、離婚権、財産処分権などが独占的に与えられていたからです。 精神病者座敷牢に幽閉することさえ、所轄の警察の許可があれば可能だったのです。
 しかし、戦後は憲法民法(一部)が生まれ変わり、家父長制がなくなります。 しかし、にもかかわらず戦後も「民事不介入の原則」が亡霊のごとく生き続けてしまったのです。
 なぜでしょう。
 旧態依然の警察がまったく頭を切り替えることができず、この分野で怠慢を極めた(出世のための点数にならなかった)からです。 民事不介入なる原則が戦後もずっとあるようなフィクションのもと、少なからぬ商店街ではヤクザ社会を利用し、家庭内では暴力を放置し続けたのでした。

「家父長に警察機能を代行させていたから、警察は介入しなかった」。
だとすれば、関係が対等になったなら、警察が介入するしかない。
家の中での、実際のちから関係は・・・







「優秀な人材に変身するキッカケに出会うか、未熟なまま老いていくか」(『分裂勘違い君劇場』)

 なぜ、坂本君は、wiseになれないのかというと、
 第一に、誰でも正しいことをするべきだ、ということを主張するだけで、物事を動かせると思っている。
 第二に、上司や会社に甘えている。
 とくに、この一点めが、intelligentな人たちの、根深い病なのだ。
 「誰でも正しいことをすべきだ」ということと、「それを実際にどう実現していくか」ということは、全く別のことなのだ。
 世の中で正しいことを実現していくには、世の中が正しいことを前提として行動してはいけないのである

ひきこもっている本人に要求されるべき「公正さ」は、世の中全体に対して要求されるべきといえる。 ところが実際には、そうは見えない。 「力の強い者はメチャクチャやれる。罪も追求されない」。
ひきこもりを通して見えてくる「公正さ」のモチーフは、どういう射程を持つか。

【追記】:

「ひきこもっている本人に要求されるべき公正さ」とはどのようなものなのか、というご質問をいただきました。
「ひきこもり」について問題になる《不公正》(とされるもの)は、次の2点です。

    1. 公共圏において、「フリーライダー」と見做されてしまうこと(税金を払っていない)
    2. 家族内において、経済的負担を負っていない(成人したのに扶養されている)

「病人でもないのに、全面的に養われる立場を維持している」という事情は、パーソンズの「病人役割」をすら参照できないとしたら、いったいどのように正当化できるのか。 【参照:「新しい役割理論的な位置づけ」(斎藤環)】
このエントリーでは、「ひきこもっている側」に《公正さ》が求められるとして、しかし「社会参加している側」は、果たしてどこまで《公正さ》に従っているのだろうか、という疑義を記してみたのでした。 ▼逆に言えば、「ひきこもり」というよく分からない事情を通じて、《公正さ》に新しい光が当てられるのではないか、と。







制度と個人――多様性

実際の支援論としては空理空論に聞こえるかもしれないが、
次のようなテーゼを検討すべきだと思う。

  • 「被支援者は、違法でない限りどのような思想を選ぶことも許されるが、支援サイドは、多様な思想を許容する思想的前提に基づいた制度を選択しなければならない。」

たとえば、被支援者本人がファシズムを選択して元気になってしまったら、どうするか。


これは、抽象的なお題目ではない。 ひきこもり支援の実情を見ていると、「被支援者が、支援者の思想をコピーしてしまう」という実態に何度も出会う*1。 端的には、そこで偶然的に出会った人間関係(中間集団)を居場所として、それ以後の人生を生きてゆくことになる。 共同体には、そこで生きている人たちに気づかれていない独特の思想傾向がある。 その傾向に馴染むことは、暗黙の前提になる*2
それ自体は間違ってはいない。 しかし、「この支援者にお世話になったら、思想まで染められてしまうのではないか(さもないと許されないのではないか)」「この団体に取り込まれてしまうのではないか」というのは、社会復帰のための支援サービスを受けようと思う当事者やご家族にとっては、リアルな心配事であり、実際にハードルになっている*3。 ▼「実現はできないが、でも理想としては掲げるべき」理念(統整的理念)として、「支援者の思想に染まる必要はない」というルールは、維持されるべきだと思う。
こうした事情は、リベラル的な制度設計の議論、すなわち「社会制度としてはなるだけ多様な価値観を認め、各人としては対等に論争を続ける」、あるいは「制度設計と実存とを分けて論じるべきだ」という議論に、合致するように思われる。



*1:影響が強い場合には、「冗談のセンス」までそっくりになる。 ▼もちろん、本人が納得しているならば、問題ないはず。

*2:もちろん、それに成功すれば、再帰性の地獄から抜け出せる。

*3:サービス消費者としての「選択行為の根拠づけ」が、再帰的にループ化する。 「この支援者でいいのだろうか」