「欲望のオリジナリティ」の自意識 ⇔ 不可避の無意識

欲望枠が「一人一派」では、社会的承認は難しい。 しかしそのことに「自分はオリジナルだ」というナルシシズムも発生し得る。 「オリジナリティ」と「本物の逸脱」の間で緊張感にたわむれている。 あるいは、オリジナリティ云々の自意識なき「野獣系」*1でも、本物の野獣は単なる逸脱になる。 ▼いっぽう、「それしか生きられない」の緊迫は、自意識的なナルシシズムで選択されるのではない。 そのような不可避の選択は、どのように社会的作法に乗せられるか。
「自分の欲望はオリジナルである」というナルシシズム*2と、「自分は既存の評価フォーマットに従って優秀である」*3というナルシシズムはどう共存しているか。 【「評価フォーマット」とは、ある欲望の指針において「どこまでいけるか」を競う。】  ▼承認を得たフォーマットでの優秀さは評価されるが、欲望枠そのものがオリジナルなのであれば、そこでいくら頑張っても評価ベースに乗らない。 「逸脱」「愚行権」でしかない。

  • 「欲望することには成功しているが、ルーチンワークと化している(エッジは利いていない)」 「エッジは利いているが、既存文脈に合流できていない」(勉強が足らない)
    • どちらに偏りすぎてもダメ。

欲望そのものを自意識においてオリジナル化するのではなく、
誰であれ欲望は陳腐だが、その陳腐さを自分ひとりで生きる用意が必要。 「自分はこれをするしかできない(しかし陳腐さは気にしない)」。 ▼今からオリジナルな欲望を身につけようとするのではなく、「すでに生きてしまっている欲望(無意識)」について問題化すること。





*1:cf. 宮台真司野獣系でいこう!! (朝日文庫)

*2:「それしかできない」とき、周囲との差異はどうでもいい。 ただ、差異は欲望の対象になり得るし、「周囲と同じである」となると、それが欲望をダメにすることがある。 ▼私自身はといえば、「それしかできない」の切迫さにおいてしか何かを欲望することができなくなっている。――「気づいたらなっていた」という事後的な気づきにおいてしか、欲望はあり得ないのではないか。

*3:受験競争や、既存の学問制度など

「欲望されること」と、愛

挙国一致の、「ニート・ひきこもり育成ゲーム」。 誰かを、自分が欲望できる状態に導こうとすること。 親子の間にもあるのかもしれないが・・・ ▼長期化したひきこもり状態の子供を抱える多くの親が、「生き延びてくれればいい」に至る。
対象をスペックに還元する「欲望」と、「愛」と呼び得る何かの違いは何か。 ▼政治的な「他者の生命の無条件の肯定」と、具体的な個別的愛の相違は何か。 cf.「特殊性と単独性」(柄谷行人

    • 斎藤環には、「人が欲望するのを見たい」という欲望がある*1。 それは彼にとって、「ひきこもり支援」より前に唐突に存在している欲望に見える。
    • 多くの不登校経験者は、奥地圭子(という母親)の「欲望通り」を目指していないか。






*1:オタク趣味そのものに没頭するよりも、オタク趣味に没頭する「人たち」に興味を持つ、など。 ▼ご本人は自分のことを、「オタクのオタク」と言っている。

「欲望の民主主義」と、「欲望の倫理」は両立できるか

「欲望として評価できるかどうか」ということと、「欲望することに成功しているかどうか」のレイヤーの違いに注意しなければならない。 「間違った欲望」*1であっても、欲望することそのものには成功している。 ▼「欲望の民主主義」と、「欲望の倫理」は両立できるだろうか。

 なかでもふるっていたのが『精神分析の戦争』の副題「民主的な心理療法のためのマニフェスト」・・・そういえば今回の論争で、反精神分析陣営(?)の論調にこうした表現が目についた。 そこでは「民主的」という表現は、精神分析に対して自らを正当化するためのとっておきのキーワードとして使われているように見えた。



継続的な社会参加*2は、必ず何らかのスタイルを持った主意主義的欲望に支えられる*3。 その欲望の多様性が許容されるべきであるということと、そのような多様性を許容する支援制度が民主的に形成されるべきである(そこに支援の倫理が問われる)ということは、截然と分ける必要がある。



*1:違法行為

*2:「家に居続けるのも社会参加の形態である」というのは、テーゼとしては言い得る。 ただしこのテーゼは、「ではお金はどうするのか」を考えていないから、経済的要請によって、けっきょくベタな「社会復帰」の命題に引き戻される。

*3:主意主義的欲望」は、おそらく同義反復。