すでに生きられている、「欲望の主意主義」

一人ひとりにおいて、生活を支える暗黙の主意主義が、つまり《信仰》が生きられている。
それをフィールドワークすることは、信仰を一度メタに眺めることではあるが、それ自体が「フィールドワークすることには価値がある」という信仰の枠組みにおいて成立している*1。 そのように分析的に考えることはさらにメタ的であるが、そういうメタ自体が信仰的に欲望されていて、メタ的な考察の欲望について自己言及的に考察することになる――メタ分析の欲望に基づいて*2。 ▼「そのように考える必要がある」という記述は、そのような追究の欲望があるという吐露であり、その欲望の共有を呼びかけている。 ある欲望の追究は、その欲望を共有できない人にとってはクズであり(対象も欲望も)、「どのレベルまでのベタ欲望ならば共有できるか」というあたりで、政治がある(人数規模は重要)。
自分が共有できない「他者の強烈な欲望」は、恐怖や嫌悪の対象になることがある。
欲望そのものについてのメタ分析は、それ自体が欲望において遂行される。 その欲望を共有してくれる相手が現われるかどうかは、賭けになる。 【確率を高めることとしての、制度的整備の呼びかけ。】
私はまだ「再帰性」としか呼べておらず分節化できていないが、「自意識のループ」と、無私的な自己分析の労働はちがうものであり、しかし似たエンジンに基づいている。 ▼経験し、消すことのできない傷が問題になっている。 消そうと思っても消せないものを資源にするしかない。 「忘れようと思っても思い出せない」。
すでに生きられている欲望を資源にするしかない(無意識的なもの)。





*1:あるいは、「自分だけは信仰ではない」という信仰。 左翼にありがちだが。

*2:「文化はリビドーの昇華であると語っているフロイトの理論は、それ自体が(自己言及的に)リビドーの昇華であることになる」という説明を、どこかでルーマンがしていた。

《差異のゲーム》――対象と欲望の「オリジナリティ」

自分が生きることに成功している欲望を「これはオリジナルだ」と言う必要はないが(歩ける人が、「これはオリジナルの歩き方」と言うようなもの)、「オリジナルに欲望できている」という自意識こそが欲望されるケースがある。 ▼「このようにオリジナルだから、あなたにとっても欲望する価値がある」という誘い。 しかし、欲望そのものをオリジナルであると主張することは、それ自体が差異のゲームの枠内にある。 【欲望対象の差異化から、欲望枠そのものの差異化へ。】 差異のゲームそのものに倦み果てれば、それもどうでもよくなる。
問題は、「それ以後」の話。 差異のゲームではない欲望があり得るか否か。――ただ、「差異のゲーム」で欲望を生き延びられるなら、ひきこもり支援としてはそれも選択肢の一つであるのは当然のこと。 再帰的自意識によって差異のゲームにシラケたあとで――そういうメタ認識の競い合い(「相手よりメタ」)に倦み果てた後で――どんな熱中があり得るか。
私はそこで、「欲動」「反復強迫」の話を始めている。