「欲望の民主主義」と、「欲望の倫理」は両立できるか

「欲望として評価できるかどうか」ということと、「欲望することに成功しているかどうか」のレイヤーの違いに注意しなければならない。 「間違った欲望」*1であっても、欲望することそのものには成功している。 ▼「欲望の民主主義」と、「欲望の倫理」は両立できるだろうか。

 なかでもふるっていたのが『精神分析の戦争』の副題「民主的な心理療法のためのマニフェスト」・・・そういえば今回の論争で、反精神分析陣営(?)の論調にこうした表現が目についた。 そこでは「民主的」という表現は、精神分析に対して自らを正当化するためのとっておきのキーワードとして使われているように見えた。



継続的な社会参加*2は、必ず何らかのスタイルを持った主意主義的欲望に支えられる*3。 その欲望の多様性が許容されるべきであるということと、そのような多様性を許容する支援制度が民主的に形成されるべきである(そこに支援の倫理が問われる)ということは、截然と分ける必要がある。



*1:違法行為

*2:「家に居続けるのも社会参加の形態である」というのは、テーゼとしては言い得る。 ただしこのテーゼは、「ではお金はどうするのか」を考えていないから、経済的要請によって、けっきょくベタな「社会復帰」の命題に引き戻される。

*3:主意主義的欲望」は、おそらく同義反復。