「当事者役割」?

《当事者》という枠組みに関連し、あまりにも繰り返し反復されるモチーフがある。「存在」と「言葉」の緊張関係、あるいは相容れなさだ。▼当事者として、《存在》を全面受容してもらうことを求めれば、《言葉》を対等に扱ってもらうことはできない。また、言葉を対等に聴いてもらおうとするなら、存在の全面受容は諦めなければならない。具体的状況をいくつか列記してみる。

  • 私は37歳だが、「支援されるべき当事者」と見做されるときには、子供扱いを受ける。つまり、《言葉》をまともに相手にされない。しかしそれは実は、《存在》としては無条件に肯定されることであり、そのことの恩恵もある。▼以前、脳性マヒのかたの講演会を聴いたとき、同様の話をされていた。40歳をすぎた成人男性なのだが、車椅子を押されて服を買いに行くと、店員は介助者にはオトナ言葉で話しかけるが、本人には幼児言葉で話しかけてくるという。▼「障害者役割(disabled/impaired role)」、「病者役割(sick role)」という言葉がすでに流通している【参照:「社会学的患者論」】。 私の考えているのは、「本人が意思表示すること」の内面的・社会的ロジックを含んだ「当事者役割」かもしれない。(検討課題)
  • 貴戸理恵氏と東京シューレの事案においては、「当事者の言葉」と、「当事者の存在」とが、鋭い緊張関係にあった*1。 運動体としてのシューレは、みずからの抗議文に手記として登場させた「当事者の言葉」を、「意味的抵抗を無化する《存在》」として扱った。それは言葉でありながら、《存在》として扱われた(菊の御紋のように)。 ▼その際、《存在》として引用された当事者の言葉には、「独自の意味生産権限」はなく(少なくとも役割上は)*2、いっぽう、《アカデミシャン=言葉》として糾弾を受けた貴戸には、意味の生産権限が十全に認められる代わりに、《当事者=存在》としての権限は認められなかった。
  • 「私は当事者だから、あなたは私の言うことを無条件に聞くべきだ」、あるいは「私は当事者だから、私の言うことは無条件に正しい」という言い方の暴力性は、《存在》としての当事者(保護対象)と、《言葉》としての主張内容を、ショートさせているところにある。▼「当事者の主張」は、いったん枠組み(存在)として肯定されたあと、事後的に無慈悲に(他の人々と同様に)検証されるべき。 私のいう「事後的な責任構造の枠組み」は、このことを指す。




*1:→『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』掲載の拙文を参照。

*2:私はここで、象徴天皇制のことを思い出さずにいられない。▼宮台真司氏の言う「過剰流動性」は、いわば《存在》が抹消され、《言葉》オンリーに思える世界ではないか。

ジャック・ラカン「疎外の演算」*3

存在を取れば、意味形成の権限を失う。 意味形成の権限をとれば、存在として無条件に肯定される権限を奪われる。――繰り返し反復するこの事情を、ラカンの「疎外の演算(operation of alienation)」という議論が描き出している。
以下、『精神分析の四基本概念』pp.282-283より。(強調は引用者)

 疎外の「ヴェル vel」*1は一つの選択によって定義されます。そしてその選択の特性は次のことに拠っています。すなわち、合併集合においては、どのように選択を試みても、結果的に「これでもなく、あちらでもない」というところに帰着せざるをえない一部分がある、ということです。したがって、選択は結局、ある部分はいずれにせよ消えてしまうのだから、残った一部分を保持する気があるかどうか、ということにかかってきます。 このことを、我われにとっての問題に当てはめてみましょう。



 主体の存在がここにあります。そしてそのうちこの部分は、意味のもとにあります。我われが存在を選んだとします。すると主体は消失し、我われから逃れ、無意味の中に落ちます。我われが意味を選んだとします。すると意味は、この無意味の部分によってくり抜かれた姿においてしか存続しえません。はっきり言うと、この無意味の部分こそが主体の実現にあたって、無意識を構成する当のものなのです

    • 《無意識》に関する議論が、《当事者》に関する議論の雛形としてこれほど有用であることの意味は。




*1:ラテン語の「・・・か・・・か」という語。

「自由をとるか、命をとるか」

《意味形成の権限》と《存在の無条件肯定》が排除しあうロジックは、雇用関係や社会保障でも貫徹しているように思う。 ▼「あれこれ意見したいなら、保護は諦めろ。保護されたいなら、黙ってろ」
ラカン精神分析の四基本概念』pp.284-285より。

 ヘーゲルをひもといてみても、これを「疎外するヴェル」と呼ぶことが正当であることが解ります。ヘーゲルでは、最初の疎外、いいかえれば人間が隷属の道に入ってゆくにあたっての疎外の発生が扱われていると言えるでしょう。すなわち、「自由か、それとも命か!」です。もしも人が自由を選んだら、一巻の終わりです。両方とも即座に失うのです。もしも命を選んだら、彼は自由を奪い取られた命を得ることになります。
 ここには何か特別なものがあるに違いありません。この特別なものは、「致死因子」とも呼べるでしょう。 【略】 やはり少し特別なある言い回しの中には、逆に死そのものを用いた表現によって、この致死因子をうまく制御しようとするものがあります。
 たとえば、「自由か、死か!」がそれです。ここでは、前とは異なり死が選択の中に入っているので、やや異なった構造が、結果として生じています。それは、どちらを選んでも私は両方を得るということです。自由というものは、よく見れば結局、フランス革命がそのために戦われたごとき労働の自由のようなものなのですが、しかし自由はまた、空腹で死ぬ自由でもありえます。いやまさに、一九世紀の一世紀間をかけて、そちらの方へと導かれてきたのです。それゆえその間に、いくつかの原理が修正を余儀なくされました。今、みなさんが自由を選んだとします。するとそれは死ぬ自由なのです。面白いことに、さきほどの「自由か、死か!」を、人があなたに言っているような状況を考えてみますと、こうして示されている条件のもとであなたにできる唯一の自由の証明は、まさに死の方を選びとることです。なぜならこのようにすることによって、あなたは、選択の自由を持っているのが自分だということを証明することになるからです。

  • 「自由を選ぶことは、死を選ぶことだ」という言い方には、さまざまな含蓄がある。
  • ここでも、「二者択一」以外の道が問題となる。




*1:関連:【残業400時間で、会社に「ひきこもり」】(ビーさん)