釜ヶ崎: むかしと今

19日、こちらのイベントに聴衆としてお邪魔した。イベント中もたいへん勉強になったが、今日いちばん印象的だったのは、終了後に聞いた次のお話(大意)。

 むかしの釜ヶ崎の人間は、貧しくはあったが、精神的に健康だった。仕事が終わったら「ガハハハハ」、と笑いあう感じ*1。しかし最近では、釜ヶ崎にいる人間の半分以上が精神的にヤバくなってる。

なんだこれは。
「資本主義が爛熟したからだ」などと言っても何も説明したことにならない。
昔は、「貧困問題」として考えていればことが済んだ。 今は、それでは事態の一部分しか考えられていない。



*1:即座に思い出したのは宮崎駿の世界観。 「共同体内における、労働者同士の哄笑」というモチーフ。(『風の谷のナウシカ』、『もののけ姫』など)

議論の出発点

「ひきこもりは、その状態像に対する依存症的な状態である」と言ったとして、それは「答え」ではない。いわば「議論にアタリをつけてみた」ということであり、そこは議論の出発点であって、「では依存症とはそもそも何なのか」ということは、よくわからない。「依存症である」と言ったところで、それによって「依存症治療プログラム」的言説が自動的に作動するわけではないし、そんなことを許してはならない。「よくわからないままに考えてみる」、その思考作業の「アタリ」として、とりあえず「依存症に関係があるのではないか」と言ってみる。そこで自分が何を意味しているのか、そこからどんな議論の源泉を突き止めることができるのかは、それ以後の課題であって、そこは出発点なのだ。▼ことほどさように、「医療的カテゴリ」およびそこから自動的に出てくる「治療プログラムの連鎖」は、≪私の試行錯誤を滅殺するトラウマ的暴力≫として受け止められている。コミュニケーションを阻害=疎外するものとしての医療主義。当たり前の会話の中にすら「医療主義」がちらつき、私の発する言葉のすべては「診断」の対象でしかなくなる。「あなたには〜〜の症状があるから、○○だ」――身体ではなく、心の問題にこれが言われてしまうこと。▼答えを共有するのではなく、出発点を共有し、一緒に穴を掘り下げてゆくこと。答えを共有するのではなく、よくわからないままの試行錯誤を共有すること。相手の断定を、「答え」としてではなく、「出発点の再措定」と受け止めること。
ナマのままの剥き出しの苦痛と傷つきの言葉を、ではそのままで生きればいいだろうか。当事者の多くは、「知的な会話」を嫌悪する。知性は、「ナマの感情」に対する冒涜と映る。ではしかし、「診断」や「知性」という社会的な枠組みは、運用価値がないのだろうか。「答え」としてではなく、「出発点」としてなら*1、議論と活動を共有するための枠組み(あるいはテーブル)として、そこには分節価値があるのではないか。



*1:あるいはその「出発」を可能にする「二次的な症状の緩和」のためなら

メモ:『SAPIO(11/23)』(イベントの配布資料*6より)

04年7月に厚労省は、労働者を正社員と非正社員に分けて就業実態の統計をとった「就業形態の多様化に関する総合実態調査結果」という調査結果を出したが、ここには恐るべき現実が記されている。契約や派遣、嘱託、パートなど非正社員として働いている人々の比率は、99年の調査では27・5%だったのが、03年には34・6%と約7ポイントも増加したのである。近年の日本でこれほど劇的に非正社員の比率が上がったのは初めてのことだ。
この就業実態調査では、非正社員の月給の調査も行なっているが、月収10万円未満の人々がなんと37・2%に達している。10万〜20万円未満の人々は40・8%である。平均値は公表されていないが、年収にしておそらく120万〜130万円ほどであろう。
非正社員には若年層のフリーターが多く含まれているからだと考えるかもしれないが、決してそんなことはない。年代別の比率で言えば、40代が24・3%でもっとも多く、次いで20代が23・2%、50代が20・4%となっている。親子でフリーターをしているケースも十分にありうる。

すでに現時点で就業者全体に占める非正社員が3人に1人となり、そのうち年収100万円台が4割に達しそうな勢いで、凄まじい速度で階級社会への移行が進んでいる。

細かいチェックと考察はまたの機会に。