活動を、「批判」ではなく、「否定」されること

社会的弱者の支援者は、「より弱い当事者」に寄り添おうとする。結果、少しでも発言を試みられる状態になった当事者に対しては、「あいつが発言するから、より弱い当事者が抑圧される」という抗議が発生する(その抗議は、実際に「より弱い」当事者本人やご家族から出ている)。しかし、発言を試み始めた当事者(経験者)は、社会的には最弱のまま。つまりこの者は、業界の内部からは「最強だ」と言われ、しかし外部社会においては、最弱の存在として相手にされない。発言を試みたことによって、業界の内部からも外部からも締め出されてしまう。


私は、ひきこもりの業界内部から、「お前一人が発言するから、お前が代表者であるかのように見られてしまう。迷惑だ」と言われ続けている(ここ最近、信頼していた関係者が次々とこうした表明を始めている)。しかし、例えば女性という自分の属性に基づいて「女性学」という当事者発言を試みてきた上野千鶴子氏は、「あなたが《女性の代表者》というわけではない」という批判を受けているのだろうか*1。ひきこもりの場合、「発言できない人たち」という当事者属性が最も強いジャンルであるだけに、とりわけ「代表ヅラ」に対する風当たりも強いと思われる。
こうした場合、なぜか皆、発言を試みている者に「発言をやめろ」と言い募る。反対ではないのか。現在発言できていない人々に、「発言してみよう」と誘ってみるべきではないのか。私の発言活動は、いまだぜんぜん足りないし、あまりに微弱だ。「発言できる人」が、もっとたくさん出てほしい。そういう人がたくさん出ることによって、相対的に私の発言の「代表」性が薄まればいい。
誰かが「偽の代表者」になってしまうジレンマは、その者に発言をやめさせることによってではなく、発言のチャレンジを試みる者が多数出ることによって、解消を目指すべきではないのか。さもないと、当事者(経験者)としての発言は、永遠に封じ込められることになってしまう。


私の発言には、当事者(経験者)としてのベタな部分(「私はこういう経験をして、このような事情においてつらい」という個別特殊事例の一つとしての体験情報)と、自分や他の事例から考察された、メタな「ひきこもり論」との、両方がある(拙著の前半と後半がそれぞれに対応している)。私に対し、「代表事例」であるかのように振る舞うな、という批判は、主立っては前者(ベタな体験情報)に対して向けられるべきだろう。後者(メタな考察)に対してまでそのような批判を向けるのは、そもそも「メタな考察」ということの意義を認めていないことになるのであるが、そもそも「代表者面するな」というその抗議自身が、一種のメタ考察である。自分はメタ考察をしておきながら、相手にはそれを許さないこと。卑怯としか言いようがない。
また、個別特殊事例の一人を紹介する場合にも、その選択には相応の政治的配慮があってしかるべきだろう。ひきこもりの多くは、「異性愛者で、恋愛経験のない、高齢化した男性」という状態像に傾きつつある。もちろんそうではない者も大勢居るのだが、「典型的にはこのような人物である」として一人だけが紹介されるのであれば、そうした属性を備えているほうが好ましい。そしてもちろん、紹介される事例は、多ければ多いほどいいのだ。同性愛者もいれば、恋愛経験のある者も、若い女性だっている。
たまたま紹介され、発言の機会を与えられた者を「隠蔽し、沈黙させる」のではなく、より多くの者に、紹介と発言のチャンスを提供すること。


ところがここにも、さらによじれがある。「当事者として紹介し、発言するのは、本人にリスクがある」。本人のことを心配するなら、「当事者」として扱うべきではない、なぜならそこにはメリットがないのだから、というわけだ。
――このようにして、「当事者(経験者)」として振る舞ってきた私の5年間の活動は、頭から否定されることになる。



*1:仄聞するところでは「受けている」とのことだが、詳しい実情は知らない。

「ニーズ」の所在と、説得力

当事者学として、「女性学」が根付き、「ひきこもり学」が根付かない理由は何だろう。女性であれば「当事者」として発言し、活動することに意義が認められるのに、「ひきこもり」ではそれが認められないのは、なぜだろう。――思うに、その当事者性が抱える「ニーズ」に、主張価値がないと見られているのではないか。女性学の提唱する「ニーズ」には、社会的な抵抗に逆らってでも主張され続ける意義がある。しかし、「ひきこもり学」には、肯定されるべきニーズを提示する能力はない――そう判断されているのだ。
現に、私に「当事者活動」の停止を迫り、私のブログを「人気取りでしかない」と断じたある者は、基本的に「早く労働に従事しろ」という方針しか持っていない。既存の社会は今のままで十分肯定されるべき状態にあり、それについて必要以上に抽象的な考察を重ねる者は、すべて逃避でしかない、というわけだ。私のブログは、その全文が「バカのたわごと」であるとされる。
私は、ひきこもり当事者たちの行なう思弁的な考察が、すべて「必要なもの」であるとは思わない。というより、ほとんどすべての「当事者による考察」は、自分の個人的な内面調整でしかなく、やはりある程度以上には膨大化するべきではないと感じる。――しかし、それだけなのだろうか? そこには、社会的な問題提起や、課題の析出という大事な要素もあり得るのではないか? もちろん、私の考察のすべてがそれに成功しているとは思わない。いや、ほとんどは、失敗した試行錯誤でしかないだろう。しかし、本当にそれだけなのか?
ひきこもり支援は、そのままでは、「不安定で過酷な労働条件に苦しむ労働者」の大量生産にしかならない。個人を取り巻く環境をめぐる試行錯誤を認めないのであれば、単なる保守思想にしかならない。


あらゆる仕方で、私の努力は否定される。まさにドンキホーテ・・・・。「ペンは剣より強し」というが、刀折れ矢尽きる自分を、支えられるだろうか。こんなことをして、自分を傷つける以上の意味があるのだろうか。本当に、誰かのためになるのだろうか。私が自分の活動を擁護するのは、自分のためでしかない、いや、自分のためですらないのか。ひたすら自虐的に自分を痛めつけているだけなのか。人に顰蹙を買いつつ。



「課題の析出」と、「自分のニーズ」

「発言できる人である」という時点で、私の個人としての属性は、「ひきこもり当事者」の平均像から著しく逸脱している。その意味において、私はやはり、「代表例」のように振る舞うべきではない。活動にしたがって徐々に人間関係ができ、社会的能力を身につけ、あるいは異性との交流を持ち・・・・といった事情が進めば、私の属性はどんどん「ひきこもり当事者」から逸脱してゆく。そうして、個人としての私は、あくまでそれを目指すべきなのだ。


私が「ひきこもり」との関連において考えるべきなのは、自分の当事者属性を可能な限り軽症化すると同時に、メタな形で課題を析出し、そこに取り組むことだろう。個人レベルにおいて抱えた問題は、可能なかぎり消滅させること。個人としての頑張りではどうしようもない問題については、それへの取り組みを社会的に措定する努力をすること。それに取り組むのに、「ひきこもり当事者である」必要はない。というか、ひきこもり当事者的な弱さやキツさは、むしろ足枷となる。私はある問題や課題に、「ひきこもり当事者として」関わるのではない。《属性当事者》ではなく、《課題当事者》として関わるのだ。たとえば、「何度脱落しても、そのつど再チャレンジできる社会を必要とする、一個人」として。そのテーマに取り組むのに、「ひきこもり当事者」である必要は毛頭ない。


大阪の親の会で初めて発言を試みてから、ちょうど丸5年が経った。これを機に、私は「ひきこもり当事者」として発言する、という枠組みから、卒業するべきかもしれない。「当事者」ではなく「経験者」として、あるいはさらに進んで、「ひきこもり問題に詳しく、そこから析出された課題の提唱者」として発言すること。――しばらく前から、私の発言はすでにそのようにシフトしていたはずだ。
上野千鶴子氏によれば、当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))とは、「私のニーズは私が決める」ということ。私は、自分の抱えた問題の当事者であるにすぎない。私が「ひきこもり当事者」として振舞う機会を与えられたのは、時代状況や出会いなど、偶然の成り行きもあっただろう。しかし今後は、自分のニーズに従って活動を試みるだけだ。
嫉妬とやっかみに狂う人々は、西暦2000年という段階――新潟少女監禁事件の直後――に「ひきこもり当事者」として実名発言を試みたいきさつがどのようなものであったか、想像することすらしないのだろう。そういえば、2000年10月の「最初の実名発言イベント」のアンケートには、すでに「自分の個人的な体験をしゃべっているだけ」という幻滅的な感想があったっけ。5年かかって、ようやく「体験から課題を析出する」、「自分の個別的ニーズに忠実になる」という指針が見えてきた。これを私の、活動5周年とすれば良いだろうか。大勢からは、私の活動そのものが否定されているわけであるが。
いや、そんなことはない――そう思い込むこと。